"おたかさん"逝く――。旧社会党委員長、社民党党首を務めた土井たか子(土井多賀子)さんが肺炎のため、9月20日に死去した。享年85だった。

「社民党から土井さんの死の発表があったのは28日。葬儀は近親者のみで済ませたそうです。05年に政界を引退し、近年は体調を崩して療養していたと聞いています」(全国紙政治部記者)

69年に衆院選旧兵庫2区から社会党公認として出馬して初当選したあと、連続12回の当選を重ねた土井さん。その長きにわたる政治家人生をひと言で言うなら"頑固一徹"だった。

「土井さんは神戸の開業医の家に生まれた。45年の神戸大空襲で、降り注ぐ焼夷弾の中を逃げ惑い、多くの人が傷つき、死ぬ姿をその目で見たとか。土井さんの政治信条だった"反戦"は、自身の戦争体験が原点にあるんです」(前同)

同志社大学を卒業後、大学講師を務めていた69年、第32回衆院選に立候補。

「その政治理念の根本にあったのは、反戦平和と護憲、女性差別の撤廃です。その姿勢は生涯、一度もブレることはなかった。平和を基本理念とする現行憲法、特に憲法9条を大切にしていたので、土井さんは"改悪"と言っていましたが、事あるごとに憲法改正を口にする自民党と対立していました」(政治ジャーナリスト)

そのブレない姿勢が、最も世間の支持を得たのが89年の参院選だった。

「消費増税やリクルート事件などで自民党への逆風が吹く中、世間を味方につけた土井社会党は"マドンナ旋風"を吹かせた。"ダメなものはダメ" "やるっきゃない" など勇猛果敢な言葉とともに、多くの女性議員を国政の場に送り込み、最終的に与党を過半数割れに追い込んだ。この時生まれた彼女の名言が"山が動いた"です」(前出・記者)

だが、ほどなく土井ブームは去り、91年の統一地方選で社会党は惨敗。責任を取って、土井さんは党委員長を辞任した。

「それでも、93年の細川内閣で初の女性衆院議長を務めるなど、まだまだ存在感は大きかった。しかし、経済政策ばかりが優先され、護憲を訴えても世間の支持を得られない状況は苦しかったと思います」(前同)

結局、05年の衆院選で落選し、政界を去ることに。

「引退後も政治活動への情熱は衰えることなく、反戦・平和、護憲を訴える講演などで全国を回っていました。土井たか子個人として、自分の信条を人々に粘り強く伝えていた。最後までブレない人でしたよ」(前出・政治ジャーナリスト)

平和を願い続けた、おたかさんの冥福を祈りたい。

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