忍耐の『人間力』  具志堅用高(元ボクシング世界王者)の画像
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沖縄の人間は差別されていたんですよ。
東京出てきて、アパートを借りようと思っても沖縄出身だとわかると、貸してくれなかったですね。

ぼくが高校卒業して、東京に出てきたときは、まだ沖縄が日本に返還されて間もなかったからね。
ボクシングが始めた高校1年生のときは、本島でやる全国大会に行くために、パスポートが必要だったくらい。

でも、そんな偏見の目で見られた沖縄の石垣島で育ったからこそ、世界チャンピオンになれたんですよ。

石垣島の人たちは、みんな我慢強い。
いまはリゾート開発されて、都会ですが、当時は何もない島だった。
バスに乗るのも、年1回、運動会のとき。
あとは、全部自転車。
それも自分で部品を拾ってきて組み立てたやつです。
新品の自転車を買えるのは、高校生になったら、これはもう島のしきたりでしたよ。

そのボロボロの自転車に乗って、島の反対側に行こうと思ったら、何時間も漕がなければならなかったんですから。
テレビも漫画もないし、家の中にいても暑いから、島中を駆けずり回って遊んでいました。

そういう生活の中で、自然と足腰が強くなったし、我慢も覚えた。
ボクシングなんてほとんどの人が続かないんですよ。
興南高校に入ってからボクシングを始めたわけなんですが、まずパンチは当たらないし、殴られてばかりで痛いだけ。
でも、そこを耐えて耐えて、初めてボクシングを覚えるんです。

練習もきつかったですね。
30人くらいアマチュアの世界チャンピオンを育てた金城慎吾さんという方のもとに下宿しながらコーチをしてもらっていたんです。
それが銭湯でね、練習を終えてクタクタで帰ってきたあと、夜の11時くらいから風呂の掃除をして、寝るのが深夜1時。
授業中は居眠りばかりしていました。

そんな生活をしていたら、高校3年生のとき、インターハイで優勝しちゃったんです。
そしたら、周囲がアマチュア選手として、五輪にいくか、プロになるか騒ぎ出した。
結局、自分より強い選手はたくさんいると思ったし、プロで通用するとも思っていなかったから、拓殖大学に進学して、ボクシング部に入ろうと思っていましたね。

荷物も拓大の寮に送っていたんです。
でも、飛行機から降りたら、なぜか協栄ジムの人が迎えに来ていた。
言われるがままに、協栄ジムについて行くと、30人ぐらいの記者が待ち構えているんですよ。
もう、後に引けない状況だったな。

だから、すーっと気がついたらプロになっていたんですよ。
プロは大変ですよ。
グローブがアマチュアの12オンスから半分の6オンスになるし、今は新品のグローブが用意されているんでしょうが、当時は使い回し。
赤から茶色に変色したグローブで、クッションもへたってるから、パンチをもらうと、そのまんまの拳で殴られているような衝撃ですよ。

プロになったばかりの頃は、練習はもちろん、生活もきつかった。
風呂なし、共同トイレの木造2階建てのアパートに住みながら、とんかつ屋でバイトしていましたね。

ボクシングがおもしろくなったのは、世界チャンピオンになってからですね。
なる前は、お金もないし、女の子にはもてないし、いいことなんて、ひとつもないんだから。

でも、世界チャンピオンになればお金ももらえるし、誰にでも会えるんです。
自分のなかでヒーローだった王貞治さんが試合を見に来てくれたときは嬉しかったなあ。
ただ、やっぱり一番嬉しかったのは、沖縄に帰ったとき、みんなからありがとうって言われたことかな。
アパートもすぐ借りられたよ。


撮影/弦巻 勝


具志堅用高 ぐしけんようこう

1955年6月26日生まれ。沖縄県石垣島出身。元WBA世界ライトフライ級王者。世界タイトル戦連続13回防衛の驚異の記録を持ち、3度目の防衛から6連続KO防衛は日本人不到の記録だ。生涯戦績24戦23勝1敗。このただ1つの負けで引退した。現在、『白井・具志堅スポーツジム』を開設し、後進育成に力を注いでいる。

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