ワンシーン役者の『人間力』 笹野高史(俳優)の画像
ワンシーン役者の『人間力』 笹野高史(俳優)の画像

「まだまだ、若輩者なんですよ」

俳優って仕事を長く続けていますがね、出来上がった作品を見て、「やった!」とガッツポーズをしたことは一度もないんです。僕だけかもしれないですけどね。

夜、夢に見ますもん。あの場面、違った。そうかー、こうやるんだったって。だから、枕元にノートと鉛筆を置いて、それを書き留めたりしています。今度やる時のためにね。反省とね、恥ずかしい思いばかり。でも、その"やり残し"があるほうがいいんだと先輩俳優は言うんです。まだ僕の中では腑に落ちませんね。まだまだ、若輩者なんですよ。

そもそも俳優に、なんでなったのかって聞かれたら、僕が、結局マザコンなんだと思います(笑)。11歳で母を亡くしましてね。その母は無類の映画好きで、姑の目を盗んでは、よく映画館通いをしていました。僕もね、気づいたら映画館の暗がりにいた。でも、まだ小さいから、ストーリーとかはわからないけど、母はしくしく泣きながらスクリーンを見つめるわけですよ。

なんだろうと思ってさ。母が一生懸命、観ていた映画って。中学の頃、一人で映画、観に行ったら、面白いなぁと思って。それで、母が好きな映画俳優になろうと思ったんです。それを兄貴に気づかれまして、めちゃくちゃ言われましたよ。「馬鹿野郎。お前みたいな奴が、映画俳優になれるわけがねえじゃねえか。まともなことを考えろって」。もう、こんこんと諭されまして。

よし、これからは絶対映画俳優になるなんて口に出さない、と誓ってね。高校の先生にも、家の者にも、映画俳優になりたいなんて気持ちは、これっぽっちも匂わせないようにして、日本大学芸術学部映画学科監督コースに入りました(笑)。それからしばらくは裏方として、劇場に出入りしていたんですが、23歳にして、ようやくずっと胸に秘めていた思いを口にできたんです。俳優の道に踏み出したのは、渥美清さんの存在が大きかった。俳優といえば、水も滴るいい男といいますかね、二枚目の人がなるもんだと思っていたんですが、失礼ながら、渥美さんのようなご尊顔でもスターになれるんだと、その存在に大いに背中を押されましてね。

渥美さんには、その後も大変よくしてもらいました。『男はつらいよ』に小さい役でしたが、出して頂けるようになったんです。午前中で仕事終え、渥美さんに挨拶に行ったら、「笹野ちゃん帰るの? いいねー。すっと現場へ来て、美味しい場面をサッとやって、ちゃっと帰っていく。俺もそういう風になりたかったね」と言うんですよ。

その言葉を噛みしめたら、「お前、頑張れよ。もうちょっと大きい役もやりたいだろう。台詞もたくさん欲しいだろう。腐らないで、ちっちゃい役だけど頑張れよ。やってれば、そのうちいい芽が出るからね」って励ましてくれているんだなと思ったらさ、嬉しくなっちゃって。よし、俺はこれからはもう、胸張ってワンシーン役者と言ってやろうと思ってさ。反骨と言いますか、こん畜生って気持ちで、ワンシーン役者の笹野でございますって、自分で言いふらしたの。

その言葉を胸に秘めて、一つ一つの仕事を大事に、断らないでやって来たんです。それで、どんどん仕事、頂くことになったんじゃないかなって思っているんですけどね。

ただ今回、出演する映画『グレイトフルデッド』の依頼を頂いた時は、躊躇しましてね。だって、若い女性にレイプされる老人役ですよ(笑)。僕はいわゆる"いい人"の役を頂くことが多かったので、そのイメージを持ってくれる人の期待を裏切ってしまうのではないかと、傲慢にも思いまして。事務所に相談したんです。そしたら、「そこまでいい人のイメージなんてないわよ。自分を買いかぶりすぎ」と一喝されてしまいました(笑)。

レイプシーンでは、女優さんが体当たりの演技で挑んで来るんで、必死に考えました。猿轡をされ、身動きができない状態で、どう抵抗できるのか。ああじゃないか、こうじゃないかとね。やり切ったけど、やっぱり悔いは残りましたね。でも、何が悔しいって、その女優さんが、全裸で胸を押し付けて来るもんだから嬉しくてね、カットと同時に切なくなっちゃって、せめて乳首にチュッとしようとしたら、逃げられちゃったことかな(笑)。


撮影/弦巻 勝


笹野高史 ささの・たかし

1948年6月22日、兵庫県生まれ。72年に『ヴォイツェク』で初舞台を踏み、俳優デビュー。79年の舞台『上海バンスキング』で脚光を浴びる。85年の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来、山田洋次監督作品の常連となり、同シリーズのほか『釣りバカ日誌』にも出演。06年には『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。ほかにも映画、テレビドラなど出演作多数

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