【追悼】菅原文太「土と生きる『人間力』」の画像
【追悼】菅原文太「土と生きる『人間力』」の画像

俳優の菅原文太さんが、2014年11月28日にお亡くなりになりました。日刊大衆では追悼の意をこめまして、「週刊大衆」2013年10月14日号に掲載されましたインタビューを再掲いたします。謹んでご冥福をお祈りします。

「ラクして、いいものはできないよ」

『仁義なき戦い』に出ていた連中は、いまじゃ、ほとんどいなくなってしまったよな。当時の深作欣二さんは、まったく売れない監督で、俺もまだそんなに、売れてなかった。上にいっぱい俳優さんがいたから。梅宮辰夫なんかも、東映じゃ先輩だしな。

そんな俺が主演で、深作が監督だから『仁義』は、会社に「なんだこれ」って思われてたと思うよ。まあ、いいからやらせてみるか、ってことでね。大体、そういうもんだよ。「これは当たるぞー」って、社長以下みんなが期待してるやつがこけたりな。映画で予測して当たったことなんてないんじゃないか?やってみなきゃわかんない。だから面白い。これが当たるっていうのだけが当たったんじゃ、面白くないよ。

いまの日本は、問題がありすぎて……ほとんどの事柄というか、日本がこんなに低下した時代はないんじゃないかな。政治家も官僚も、人間、全部が落ちている。
映画もそうかもしれない。質的なものよりも、やっぱりカネ、興行成績優先で、中味よりも儲かるものを、が、現在の姿だな。

一番大きいのは、アナログからデジタルに変わったことだね。これはどうにもならない。人力というのが、アナログ映画にはあったんだよ。あの、裏方な。照明部なんて、ロケーションに行くときなんかは、10キロも20キロもあるこんなでかいやつを担いで、トラックに乗せて行った。そりゃあ、俺たちはカメラなんか背負わないよ。でも、そうやって、みんな汗を垂らしながら、やっているのを見てるとね、縁の下の力持ちは大変だなあ、と。だから終わると「おいみんな、飯食おうよ」ってやったりね。

いまは、ほとんど労働がないよね。照明も、片手で持てる。ラクしていいことはないよね。ラクしていいものはできないよ。たとえば、立ち回りなんて、本当に最後にはひっくり返るぐらいまでやる。そういうことを何時間もやるわけだから。だから「映画はなんだ?」って聞くと、昔の、古い俳優でも監督でも「労働だ」って言うよ。

農業をやるようになって、4年目になる。山梨県の北杜市という一番北のほうでやっているよ。少しずつだけど経験が積み重なってくるし、土も良くなってくる。借りたばっかりのときは、前の年まで使ってた人たちが農薬や化学肥料を使ってるからね。

で、やっとまあ、土がきれいになってきた。4年目だから、それは明らかだよ。如実にわかる。世界中に農業はある、人間が育っていく基本が食べ物だよ。どんなに豪邸に暮らそうが、5000万円の車を持って遊びに行こうが、食い物がなきゃ生きていけない。だから、何万年も前、人類が始まってから食い物が一番最初にあるわけだ。それを作ってる人が一番下に見られてきたのはなんなんだろうな、と思うよね。本当は、一番大事にされなきゃいけないはずが、どこか下に見られてきた。

農業は馬鹿じゃできない。日本が世界の大国のひとつになったのは、農業をやってきて、みんな頭を鍛えていたから。これを怠ったら、どんどん人間力は落ちていくよ。まず、子供たちが農業から離れてしまったからね。なんで子供が農地に出ないかっていうと、農薬を撒くから、危ないって、親が小さい子供を出さないんだよ。昔は、畑や田んぼで子供達が転げまわって遊んでたのにね。優れた農家は、畑で子供たちを遊ばせておいた。それで、こんなでかいミミズが出てくると「これは大事なミミズだ。こいつがいないと、この畑はダメなんだ」って教える。野ネズミだっている。野ネズミは可愛いんだよ。ドブネズミは気持ち悪いけどな(笑)。

そういうものを子供たちは見る。見て経験しないと覚えない。
そういうところで、自然と遊ぶこと、馴染むことを学ぶんだよ。そういう大きな懐の中で育つと、幅のある人間になる。勇気も、親切な気持ちも、そこから育つんだ。人間は、自然にはかなわないよ。

2013年9月5日取材
撮影/弦巻 勝


菅原文太 すがわら・ぶんた

1933年8月16日、宮城県仙台市出身。早稲田大学中退後、58年に新東宝で映画デビュー。のち、東映に移籍し『人斬り与太』で人気を博す。73年からの『仁義なき戦い』シリーズ、75年からの『トラック野郎』シリーズで国民的な大スターとなる。75年ブルーリボン主演男優賞受賞。2007年に膀胱がんを発症するも克服。09年に農業生産法人「株式会社竜土自然農園」を設立し、本格的に農業活動に乗り出す。12年に「いのちを大切にする社会」を目指す国民運動グループ『いのちの党』を結成。

本日の新着記事を読む