師匠であり、三沢が全日本プロレス在籍時には社長として辣腕を振るっていたのがジャイアント馬場だ。
当時、週刊プロレスの記者として至近距離から2人を見ていた市瀬英俊氏には「ジャイアント馬場と三沢光晴の関係」は、どう映ったのか……。


直接受け渡されることのなかった社長という名のバトン

三沢光晴が全日本プロレスと袂を分かち、新団体『NOAH』を設立したのは2000年6月のこと。全日本からは20人あまりのレスラーが大量離脱、NOAHへの参加を果たした。歴史は繰り返す、とはよく言ったもので、2000年からさかのぼること10年。1990年の6月にも全日本は存亡の危機に立たされた。
新団体『SWS』への選手大量離脱。すでに4月の時点で全日本を退団していた天龍源一郎を皮切りに、総勢10人あまりのレスラーが雪崩を打つように次から次へとジャイアント馬場のもとを去っていった。

80年代終盤、天龍は間違いなく全日本をけん引していた。その天龍が消えた衝撃。退団直後に開催された90年5月14日、東京体育館大会は埋めがたい喪失感を突きつけられる興行となった。
なんの盛り上がりもないまま凡戦で終わったセミファイナルのデイビーボーイ・スミス対ダスティ・ローデス・ジュニア。続くメインイベントのタッグマッチでは、コーナーマットに背中を強打した馬場が動けなくなってしまうアクシデントが発生。全日本はどうなってしまうのだろう。誰もが先行きを不安視した。
そんな中、ファンにとって唯一の光となったのが、虎の仮面を脱ぎ捨て素顔に戻った三沢光晴だった。
「ミッサッワ! ミッサッワ!」
何かにすがるように沸き起こった三沢コール。
しかしあの日、「ミッサッワ!」と声をからしたファンのうち、果たして何人が「三沢光晴こそが全日本の未来を背負う人物である」と予期していただろうか。願望はあったに違いない。だが、どれほどの確信があったか。それは社長の馬場にとっても、おそらく同じことだった。

90年6月8日、全日本プロレスの日本武道館大会。天龍の顔が巡業ポスターから消えたシリーズの最終戦、そのメインイベントで三沢光晴はジャンボ鶴田との一騎打ちに臨んだ。当時の両者の格は大相撲で言えば関脇と横綱のようなもの。少なくとも千秋楽の結びの一番に配置される取り組みではない。
されど馬場は、三沢にすべてを懸けるしかなかった。
その期待に応えるかのように、三沢は逆転のフォール勝ちを収めた。武道館にまたしても「ミッサッワ!」コールがこだました。

「馬場さんも、鶴田選手や三沢選手だと安心して任せられる、ということがあるんじゃないですか?」
「そうだね。実を言うとそれが一番大きなことだね。彼らのことを信頼できるから、こうしてのんびり治療していられるというか」
91年1月発行の『週刊プロレス』誌上に掲載されたインタビューで、馬場はこのような会話を残している。このとき馬場は都内の病院に入院中。前年11月30日の帯広大会で左大腿骨亀裂骨折の重傷を負っていた。
自身が不在のリングで、信頼に足る闘いを展開してくれた鶴田と三沢。だが、まもなく肝炎を発症した鶴田が92年10月限りで第一線からの撤退を余儀なくされると、馬場の胸の中ではますます三沢に対する信頼度が深まっていったに違いない。

92年から94年にかけて、さらには97年から98年にかけて、三沢は三冠王者として長期政権を築いた。文字通り横綱格のトップレスラーとして、馬場全日本に繁栄をもたらした。自分と同じように口では大風呂敷を広げることなく、一心不乱にリングで完全燃焼する三沢をゆくゆくは後継者に。馬場がそう考えたとしても不思議ではない。
しかし、99年1月に馬場が突然この世を去るという運命のいたずらによって、三沢はやがて全日本に別れを告げることになる。“馬場なきあとの全日本”で出来なかったことを実現させるために、NOAHを旗揚げした。
もし、スムーズな形で馬場自身から社長という名のバトンを受け取っていたとしたら、三沢はどのような「馬場イズム」を新生全日本マットに刻んだだろうか。
2009年6月13日。46歳の若さで帰らぬ人となった三沢。馬場同様、生涯現役を貫いたレスラー人生だった。


文◎市瀬英俊

『俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)』より一部抜粋、全編は本誌にてお楽しみください。

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