虎の仮面を脱ぎ捨てて、名実ともに全日本のトップレスラーとなった三沢光晴。川田、小橋、田上と繰り広げられる激闘はいつしか“四天王プロレス”と言われるようになり、ファンの想像を遥かに超えるレベルでプロレスを進化させていった。

待望の鶴田超えを果たし、全日マットに新時代到来

1990年春、全日本プロレスを激震が襲った。
当時、全日本の屋台骨を支えていたトップレスラー・天龍源一郎が団体を離脱。後に他の選手とともに新団体SWSに参加することになる。
日々、激しいファイトでファンを沸かせ、カリスマ的人気を誇っていた天龍。ジャンボ鶴田との試合は全日本の黄金カードだった。そんな“切り札”を失った全日本プロレスを「崩壊の危機」と見る者もいた。

そんな状況で行われた、5月14日の東京体育館大会。場内には暗いムードが漂っていたとも言われる。
そこで組まれたのが、タイガーマスク&川田利明組VS谷津嘉章&サムソン冬木組。決して“注目の一戦”ではなかったはずだ。
だがこの試合で、タイガーは自らマスクを脱ぎ捨て、素顔で闘い始める。その衝撃的な光景に、ファンは騒然となった。
マスクマンが自らマスクを脱いだ。それだけでも充分に衝撃的だ。だが、それだけではなかった。タイガーマスクの“正体”が三沢であることは、すでに公表されていたが、タイガーマスクが覆面を脱ぎ捨て、素顔になったということは、タイガーマスクという“キャラクター”を捨て、三沢光晴個人として自己主張をしたということだ。

さっそく、鶴田と三沢のシングル対決が組まれる。1990年6月8日、日本武道館。鶴田の強さは圧倒的だった。しかし、三沢は一瞬の隙をついてバックドロップを切り返し、誰もが予想しなかったフォール勝ち。“時代が動いた”瞬間に、多くの観客が鳥肌を立てたに違いない。

この時期、三沢とともに全日本を引っ張ったのは川田、小橋、田上だった。彼らは全日本プロレスの“四天王”と呼ばれ、彼らの闘いも“四天王プロレス”として他とは区別されるようになる。
それだけ、彼らのプロレスは独特であり、またハイレベルだった。リングアウトや反則、乱入といった不透明な要素を一切廃し、リング上で完全決着をつける。トップ選手同士の対戦だから、当然ながら簡単に決着はつかない。精根尽きはてるまで殴り合い、蹴り合い、危険な投げを放つ(受ける)。絶え間なく続くその攻防は30分、ときには40分を超えた。テレビ解説のジャイアント馬場が感動のあまり涙を流して、「(凄すぎて)解説のしようがない」と語ったのも有名な話だ。

彼らにはプロレスファンの想像を遥かに超えるレベルで試合を展開するだけの技術と体力があった。技術とは攻撃のためだけのものではない。プロレスラーに必須とされる受け身。その達人としても三沢は知られていた。
常に危険な真っ向勝負を繰り広げることについて、三沢は対戦相手の体が大きく、技を受けながらチャンスを狙うスタイルになったと語ったことがある。真っ向からやり合うことで、負けても納得のいく試合ができるのだとも。そして、「自分だからこの技を受けられる」「自分が相手だから(ここまで危険な技を)かけてくる」ことに自信を持っていた。
危険な技をかけるということは、危険な技を受ける相手がいてこそのことだ。「この相手だからここまでやれる」、「自分だから相手はここまでやる」。四天王プロレスは、相手の力量を信頼しているからこそできるものだった。同時に、信頼し合っている者同士が命を削り合うように闘う光景には、せつなさもつきまとった。だが、そのせつなさがあるからこそ、四天王プロレスは見る者の心に深く刻まれたのではないか。


文◎橋本宗洋

『俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)』より一部抜粋、全編は本誌にてお楽しみください。

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