仲間の笑顔を楽しむ『人間力』石井一久(元プロ野球選手・会社員)の画像
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「仕事だからこそ、楽しくなくても一生懸命やりたいし、完璧にこなしたいと思っていました」

 小中学生の頃は、平日はほとんどサッカーやっていましたね。野球は土日しかやらなかったので、ほぼ補欠でした。ただ、たまたま中学3年生の時に出た試合で、2本ホームランを打ったんですが、それを見た東京学館浦安高校の野球部にスカウトされたんです。親も僕に野球やってほしいと思っていたし、せっかく誘ってくれるんだからと思って、そこに進学することになりました。

 僕は、ダラダラするのが好きで、今でも家では、ゴロンと寝そべっている時が一番楽しいんです。子どもの頃も同じで、スポーツやってない時は、学校が終わると祖母の家の炬燵に潜り込み、『西部警察』を見ていたような少年でしたから。特に将来の夢とかはなかったんで、野球が得意で良かったです。そうでなかったら、ダラダラ高校行って、その後大学に行ったか、社会人になったかわからないですけど、まあ、ダラダラしていたと思います。

 そのくらいの気持ちで野球部に入ったんですが、監督が厳しくて、甲子園に出たことないくらいの高校なのに、練習量だけは強豪校と遜色なかったですね。打者として野球部に入ったんですが、1年生の時にピッチャーに転向。冬場の練習はずっと走りっぱなし。でも、そのおかげか、春先には球が速くなったんですよ。

 球速が140キロくらい出るようになって、注目されるようになりましたね。僕のことを買ってくれていた野村克也監督が当時監督を務めていたヤクルトに入りました。

 野球を仕事にして、楽しいと思ったことはないですね。でも、仕事だからこそ、楽しくなくても一生懸命やりたいし、完璧にこなしたいと思いました。人の評価は気にしないですが、信頼は裏切りたくない。こいつは凄いとか凄くないとかいう評価は別にいらないです。それより、「こいつは、ここ一番でやってくれる」っていう感覚を周囲の人が持ってくれることが凄く嬉しかったです。

 だから、個人的な記録には興味なかったです。ヤクルト時代にノーヒットノーランを達成したことがあるんですが、その時、8回で野村監督に降板を申し入れたんです。「アホか!」って怒られて9回のマウンドにもあがりました。僕の仕事はノーヒットノーランをすることじゃなく、試合に勝つことでしたからね。9回は信頼できるクローザーの仕事だと思ったんです。

 僕は若い頃から、ずっと野球選手でいようとは思っていなかったです。野球を辞めたあとは、野球で得た財産を食いつぶすんじゃなく、違う人生を歩んでみたいと考えていたので、40歳がギリギリだと思ったんです。

 野球は仕事だから楽しくはない。でも充実感はありました。それは勝った時です。勝つと嬉しいから、誰もが、笑顔になるじゃないですか。それがリーグ優勝だったり、日本シリーズ優勝だと心から笑うんです。今まで見たことのない笑顔がそこにあって、そんな仲間の弾けた笑顔を見るのが好きなんです。

 ただ、プロ野球選手って引退後に笑顔じゃなくなってしまう人が多いんですよ。一流選手が年間1億円で10年稼いだって、大したお金を残せない。税金もあるし、金銭感覚もずれていて。辞めたら生活どうすんの? って思える人がいっぱいいる。

 そんな後輩たちが、現役辞めて笑顔をなくしたら、僕自身も楽しくないし、暗くなる。きれい事に聞こえるかもしれないですが、引退後の受け皿ならいろいろあるよって、アドバイスして手助けしてあげられたらいいなと思い、そういう仕事がしたかったんです。

 それで、メジャー時代にお世話になった吉本興業が、スポーツマネージメントに熱があったんで、そこで、野球選手たちの第2の人生をサポートできたらなと思って、いま吉本興業で社員として働いています。まあ、後輩からは、大きなお世話だと言われるかもしれませんけど(笑)。

撮影/弦巻 勝

 
石井一久 いしい・かずひさ

 1973年9月9日、千葉県生まれ。東京学館浦安高校卒業後、ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団。シーズン未勝利の高卒1年目で日本シリーズの3戦目に先発登板するなど、入団当初から将来のエース候補と目され、6度のリーグ優勝と、5度の日本一に貢献。02年にはメジャー入り。日米通算182勝の大エース。現在は、吉本興業に社員として勤務する傍ら野球解説者としても活躍中。

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