今ではすっかり大らかな熟女となったフユ子も、大人しい女子大生の頃があった。

その頃の妙な思い出といえば、近くの踏み切りであった事件と、それにまつわる怖い話をよくしてくれた老婦人だ。ところが、老婦人の死後に親しくなった近所の人や同じマンションの住人に聞いても、誰一人としてそんな事件は知らなかった。

老婦人の素性も、誰も知らなかった。老婦人と唯一つきあっていたフユ子ですら、考えてみれば姓しか知らない。下の名前も聞いたのかも知れないが、思い出せなかった。

写真も一枚もなく、自宅に招かれたこともなく、次第に顔もはっきりとは思い出せなくなっていった。なのにやけに生々しく、自殺したヤクザ者の話と踏み切りの幽霊は思い出せるのだ。後ろ向きで静かに踏み切りにたたずんでいた、半透明な男の幽霊。

同じマンションの住人で、鉄道会社に勤めている人と、新聞社に勤めている人が調べてくれたが、やはりそんな事件の記録はなかった。

老婦人はそのヤクザ者と愛人に何かの関係があって、でもその話はここではなく、老婦人の故郷での話ではないかと、誰かがいった。フユ子は、それが正しいような気がした。それもただの知り合いなんて関係ではなく、もっと深いかかわりがあったように思えた。

「もしかしたら、ヤクザ者が惚れてたお嬢様が、その老婦人なんじゃないの。実際にはお嬢様は殺されてなくて、情夫だったヤクザ者が一人で自殺しただけとか」

この話をしてくれたフユ子に、ふと尋ねてみた。フユ子はそうかも、とうなずいた。

「枯れたおばあちゃんで、普段は上品なんだけど。ヤクザ者の話をしているときだけ妙な色気を発散するというか、怖い話ではなく猥談、エロ話をする雰囲気になってたわ。幽霊でもいいからやりたい、みたいな舌なめずりをしそうな雰囲気だった」


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