ピンク映画出身の『人間力』廣木隆一(映画監督)の画像
ピンク映画出身の『人間力』廣木隆一(映画監督)の画像

「やりたいようにやればいいんだって言われ、自信になりました。それが映画の個性になるっていうのは大きな発見でした」

今回の映画は、2週間で撮ったんで、撮影期間中はほとんど寝てないです。これだけのキャストを集めるとなると、まあ大変でして。主役の染谷(将太)と、韓国人女優のイ・ウンウは、2週間現場にいましたが、映画に出てほしかったもうひとりの主役・あっちゃん(前田敦子)は3、4日だったかな。

内容は歌舞伎町のラブホテルを舞台に、風俗嬢や、不倫カップルなど、いろんな背景を持った男女の群像劇。群像劇は、初めてやらせて貰ったんですが、役者さんがみんな頑張ってくれました。デリヘル嬢を演じるイ・ウンウは、日本語がまったく話せない状態で来日したけど、理解力や集中力が凄かったね。
編集の段階では、「どうかな?」って不安もあったけど、試写会で観てくれた人が、「とても良かった」って言ってくれたので、いいのかなって思っています。

映画監督になろうと思ったのは、大学生の頃。60年代後半から70年代前半のアメリカ映画『明日に向かって撃て!』や、『アメリカングラフィティ』が好きで、友だちに連れられて、映画監督としても活躍していた寺山修司さんの講義をモグリで聞いていたんです。そこで、自主映画を作っている友達ができたのが、映画の世界に入ったきっかけですね。

その頃、日本の映画界は斜陽で、映画撮りたいといっても、ピンク映画しかなかった。それこそ、『週刊大衆』とかに、ピンク映画の世界では、企画書さえ持って行けば、若いやつでも、映画が撮れるみたいな記事が載っていたんです。
で、ピンク映画の老舗・大蔵映画に台本持って行って、どうしたら映画監督になれるんですかって聞いたら、「普通は助監督からだ」と、監督を紹介され、「明日から来い」って。それで、撮影現場へ行ったんです。もう、ボロクソに怒られました(笑)。そりゃそうですよね。こっちは何にも知らないんですから。

それから、映画監督の中村幻児さんと知り合って「3年やって監督になれなかったら辞めたほうがいいぞ」って言われ、自分でも20代で絶対、監督になると決めていたんで、やってみようと思ったんです。ギリギリ28歳の時に監督になれました。
監督としての初作品は、めちゃくちゃつまんなくて、次の1年間、オファーが来ませんでした。やっぱり、監督とか向いてないと思いましたね。

その後、なんとか10年ほどピンク映画の監督をやらせてもらいましたが、大変でしたね。一つの作品で、予算300万くらいを映画製作会社からもらうんですが、俳優さんのギャラや、スタッフ、スタジオの費用なんかを払ったら赤字なんですよ、毎回。
だから、次の作品入れて、そのマイナス埋めて、またマイナスになって、それがどんどん膨らんで、まさに、自転車操業。よく犯罪者にならなかったなって思いますね(笑)。

その頃、お世話になったのが、実は『週刊大衆』なんです。"人妻の不倫告白"みたいな記事を書かせてもらって、その原稿料で糊口を凌ぎました。当時の編集部の方には、飯や酒をご馳走してもらったり、お世話になりましたね(笑)。

94年には、アメリカのサンダンス映画祭に参加したんですが、おもしろかった。ピンク映画の現場しか知らなかったんで、「ハリウッドのやり方はどうなんだ?」って聞いたら、「やり方なんて関係ない。やりたいようにやればいいんだ」って言われ、自信になりました。自分がやりたい方法、それが映画の個性になるんだというのは大きな発見でした。

その後、一般映画の仕事が舞い込み、今に至るって感じです。
ピンク映画で培ったものは、財産ですね。ピンク時代は基本的に自由にやっていましたから、今もこのジャンルは、こう撮るんだとかそういった決まりを、どんどん壊していこうって思います。映画なんだから、こうしなきゃいけないなんてものはないと常に思って撮っていきたいですね。

撮影/弦巻 勝


廣木隆一 ひろき・りゅういち

1954年1月1日、福島県生まれ。大学在学中にピンク映画の世界に入る。デビュー作『性虐! 女を暴く』でシティ派の異名をとり、10年間その世界で活躍。03年、寺島しのぶ主演『ヴァイブレータ』が第25回ヨコハマ映画祭で監督賞を始め5部門を受賞。また、同作品はヨーロッパを中心に40以上の国際映画祭で数々の賞を取る。職人肌の監督で、謙虚で人当たりのいい人柄が好感を得、今後益々期待される監督である。監督作品は多数。

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