──96年に『UFC8』さらに『アルティメット・アルティメット』と、UFC2大会で優勝したあと、97年から新日本プロレスのリングに上がるようになったきっかけはなんだったんですか?

フライ UFCでの最後の試合となった、96年の『アルティメット・アルティメット』の決勝戦(タンク・アボット戦)で拳を骨折してしまい、治療のため2カ月間休養をとっていたんだ。そうしたら、ブラッド・レイガンズが当時のUFCコメンテーターであったジェフ・ブラトニック(ロサンゼルス五輪レスリング金メダリスト)の知人だったことから、俺の連絡先を聞いたらしく、「ニュージャパン・プロレスリングのミスター・イノキ、マサ・サイトーと会ってみないか?」と誘われて、ブラッドの家で会うことになったんだ。あのとき、ほかにはフジタさん(藤田和之)、オガワさん(小川直也)も一緒だったよ。

──ブラッド・レイガンズを仲介したレスリングつながりで、パイプができたんですね。そのとき、どんな話になったんですか?

フライ ニュージャパン・プロレスリングでプロレスラーにならないか? という話だった。しかも、単発で試合をするのではなく、ちゃんと年間契約を結んで、フルタイムのプロレスラーとしてやってほしいという話だった。

──フライさんは、その誘いに対して、すぐにOKを出したんですか?

フライ もちろんさ。さっきも言ったとおり、プロレスラーになるのは子供の頃からの夢だったし、条件も素晴らしいもので、俺がトップレスラーになるプランもしっかりと考えていてくれた。まあ、そうじゃなくても、ブラッド、イノキさん、マサさんという、3人のヒーローに誘われたら、「NO」とは言えないよ(笑)。

※インタビュー前半部分のみ引用、全編は「俺たちのプロレスVOL.3」本誌でお楽しみください。

●聞き手=堀江ガンツ


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