2013年9月7日、ブエノスアイレスの地で2020年五輪開催地が東京に決定。スポーツには壁がある。それは記録であり、難しい技だ。それを乗り越えるため、選手たちは努力を重ね、ついに、それを果たす。その瞬間の感動秘話を紹介しよう!

心、技、体を磨き上げた女性たち 日本中が感動! スポーツ記録が生まれた瞬間 瞬間その1
女子バレー日本代表 モントリオール五輪76年7月30日


打倒・ソ連!
当時、それが日本女子バレーボールチームの合言葉だった。

東京五輪(1964年)で大松博文監督率いる"東洋の魔女"が強敵・ソ連を破って金メダルを獲得し、日本中を歓喜の渦に巻き込んだ。そのことで、バレーボールは日本のお家芸とされ、以降、金メダルの獲得は当然のことと思われていた。

しかし、その後のメキシコ(68年)、ミュンヘン(72年)とソ連が五輪を連覇、日本は銀止まり。国民の不満は募った。

そして迎えた76年モントリオール五輪。国民の期待と重圧を一身に背負って、全日本チームの指揮を執ったのは"出戻り"の山田重雄監督だった。
「山田監督はメキシコ五輪でソ連に敗れて銀メダルに終わったことで、"金メダルをなくした男"と酷評されました。それだけに、モントリオール五輪では必ずやリベンジを果たそうと、かなりの覚悟をしていたはずです」(スポーツ紙デスク)

山田監督は、白井貴子、飯田高子、前田悦智子などの大型な攻撃陣と、当時世界一と言われたセッター・松田紀子を中心にチームを再編。全日本のレベルアップを図るとともに、徹底的にライバル・ソ連を分析した。

「具体的には、ソ連の全選手のスパイクとサーブのコースを克明に記録して、数万に及ぶデータを収集。練習時には、ソ連のレギュラープレーヤーの動きを完コピさせた控え選手たちをソ連に見立てて、レギュラーチームと争わせたんです」(前同)

このとき、ソ連撃破の秘密兵器として、日本チームが開発した技が"ひかり攻撃"である。普通の"Bクイック"はネットと平行に約3m横へトスを上げるが、"ひかり攻撃"では約6m離れた位置に素早くトスをする。

軌道の似たトスが2種類あれば、相手は、どの選手がスパイクを撃つのか予測が難しい。打倒・ソ連の"絶対的武器"として首脳陣は大いに期待していた。
連日、セッター・松田とエースアタッカー・白井を中心に血の滲むような練習が繰り返され、この攻撃を、誰もがブロックできないレベルにまで高めた。

さて、五輪の大舞台。ハンガリー、ペルー、カナダ、韓国をすべて3-0で撃破した日本は、いよいよ7月30日、宿敵・ソ連と決勝戦で相まみえる。
立ち上がりこそ、ソ連がポイントを先取したが、高柳昌子のスパイクで7-7に追いつくと、白井の"ひかり攻撃"が面白いように決まり始め、ソ連はなす術もない。第1セット15-7、第2セット15-8。第3セットも勢いは変わらず、一気に10点を奪った日本に対し、ソ連が1点を返したときには"同情の拍手"が起きるほど、ソ連は弱っていた。最後に白井のスパイクがとどめを刺し、日本の勝利が決まった。

日本チームが編み出した画期的な秘技"ひかり攻撃"。その威力が見事に証明された勝利でもあった。こうした特殊技は当時の日本のお家芸であり、五輪での活躍の原動力となっていた。

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