映画に生きる『人間力』曽根晴美(俳優・映画プロデューサー)の画像
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「まぁ、好きなんですよねギャング映画が。好きでなければやっていけないですよ」

映画の世界で、俳優やらプロデューサーをかれこれ57年やらせてもらっていますけど、辞めようと思ったことは何度もありますよ。

サラリーマンと違って、仕事がない時は、本当に何もないからね。居酒屋やったり、ラーメン屋を開こうと思ったこともあるけど、好きでこの世界に入った以上、やっぱりこの道しかないんですよ。
山あり谷ありで、一歩踏み外したら、谷底に落っこちてしまうようなギリギリのところを歩いていますから。だから、若い人に言うの。お前ら、おれが落ちないようにちゃんと支えといてくれよってね(笑)。

まぁ、好きなんですよね、ギャング映画が。好きでなければ、やっていけないですよ。
デビュー当時は、ニュー東映っていう会社があって、そこでギャング映画に出たのが、始まりでした。
それからいろんな作品に出ましたが、深作欣二監督とやったアクションドラマ『キイハンター』はよかった。

当時、カメラマンといえば、座ったきりで、綺麗な絵を撮るもんだったんだけど、作さんは、リアルに拘った。カチ込みのシーンなんかでは、"カメラを持って、とにかく動け"と。撮影所のある京都でナンバーワンのカメラマンを捕まえてきて、撮らせたんだけど、彼は"こんな撮影はできない。降りる"って。でも、翌日"やっぱりやる"って考え直して、現場にきたんですよ。
で、5分のシーンを撮るのに、1日がかり。でも結局、作さんが気に入らなかったのか、使われなかった。カメラマン怒ってましたね。"使わねーんなら撮らせんな"って(笑)。

ほかにも、鶴田浩二さんが出演する映画の撮影で朝の4時だったかな。岸壁で、鶴田さんの背中が、遠目に小さく映るだけのシーンだったので、当初は代役で撮影していたんですが、作さんがやってきて"鶴田さん、連れてこい"って。鶴田さんも朝起こされて、しかも、小さな背中が映るだけ。"帰る!"って怒ったんですが、作さんは"鶴田さんの背中の芝居をできる役者がいたら、連れて来てください"とひと言。その言葉に、さすがの鶴田さんも黙っちゃったね。
でも、作さんの映画って言ったら、みんな出たがった。彼は、人一倍役者思いでしたから。

『仁義なき戦い』の撮影が終わった時、作さんと飲んだんです。"うまくいきましたね"っていうと、"あれは、おれの腕じゃないよ。わしは、役者が引いてくれる馬車に、手綱を持って乗っていただけ。この役者出すぎているなと思ったら、手綱を引っ張って、出てないやつのは、ゆるめてやった。それで、役者が競い合ったからいい作品ができたんだ"って。

作さんの仕事ぶりを目の当たりにして、大いに刺激を受けました。
その当時に比べ、今は予算と時間がかなり限られてしまった。Vシネに俳優兼プロデューサーとして関わることが多いんですが、8日間で2本撮りなんて当たり前。だから、その限られた時間で、どうやって撮影時間を短縮するかを、知恵を絞って考えなければならない。

例えば、ヒットマンが敵対する組織の親分を殺すシーンを撮るにしても、時間がかかる外撮りは極力控えて、部屋のなかのセリフだけで、それを説明しちゃう。
役者は覚えるセリフが多くて大変だと思います。ギャラだって全盛期より、格段に安い。それでも好きだから、みんな頑張ってくれるんです。出番がないのに、現場に来てくれる役者もいれば、退院したばかりなのに駆けつけてくれる役者もいる。

お金はない。でも、"もういいよ、お金のことは。俺は役者という仕事が好きなんだから出るよ"といってくれる役者がいるんです。
そんな彼らのためにも、おれも頑張らなきゃならんでしょう。

もう77だけど、この仕事ができなくなったら終わりだし、終わってもいい。だけど、現場にきて、役者やスタッフと弁当食いながら、話すのが楽しいからね。やれるところまでは、この仕事を続けていたい。

撮影/弦巻 勝


曽根晴美 そね・はるみ

1937年9月5日、大阪府生まれ。57年東映第四期ニューフェイス。同期には山城新伍。58年、『裸の太陽』でデビュー。61年には、深作欣二初監督作品『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で準主演に抜擢され、その後『仁義なき戦い』全シリーズに出演するなど、数々の名作に出演。03年、自ら製作、出演した『極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU』(三池崇史監督)が第56回カンヌ国際映画祭の監督週間に正式出品され、プロデューサーとしての成功も収める。現在も、役者兼プロデューサーとして多くの作品に関わっている。

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