3月19日、人間国宝の落語家・桂米朝師匠が、この世を去った(享年89)。
「『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』や『算段の平兵衛』など、演じられなくなっていた上方の噺(はなし)を発掘し、現代向けに再構成。ネタの数は200もあり、一人で1日3席、毎日ネタを替えながら6日間通しで上演したこともあります」(全国紙文化部記者)

上方落語を復活させた功績を称えられ、1996年には人間国宝に認定。2009年には落語界で初めて文化勲章を受章した。
「人間国宝の認定式時には、"これが壺や絵やったら息子も高う売ることができるんですが"とギャグを飛ばしていました。そんな人は史上初でしょう」(同記者)

テレビでも活躍し、82年には公共広告機構の"アイバンクキャンペーン"にボランティアで出演している。
「のちに、自身の自伝で"人間国宝や紫綬褒章を受章したときより、『アイバンク』のCMでCM大賞を受賞したときが一番うれしかった"と語っています」(芸能記者)

03年、桂米朝師匠にロングインタビューを行った、芸能ジャーナリストの中西正男氏はこう語る。
「当時、米朝さんは77歳でしたが、"いつ死んでもええ"と言うてはったのが印象的でした。それも、冗談ではなく真剣な面持ちで」

滅びたとまで言われた上方落語界。米朝師匠がその道に入った頃は両手に足りぬ数だった落語家が、今やその数250人。
「上方落語を盛り返したという自負と満足感があったのでしょう。それでもなお、落語の未来を考えてはった」

当時、中西氏は、上方落語の噺家のインタビュー連載を毎週担当していたが、
「米朝さんは、そのすべてに目を通されていました。当時27歳と駆け出しの私にも"えらい若いもんまで取り上げていただいて、ありがとうございます"と、深々とお辞儀をされました」

後進を育て、60人を超える一門を築き上げた米朝師匠。25日に行われた葬儀と告別式には約1500人もの人々が参列した。
「米朝さんがよく語っていたのが"末路哀れは覚悟の上やで"という言葉。これは師匠の米團治さんからの忠告なのですが、本人は晩年、自身の著書のなかで"哀れどころか、最高に幸せな男ですな"と書いています」(前出の文化部記者)

さらに"米朝イズム"は落語界を越えて広がっている。中西氏は、
「米朝さんが亡くなった翌日、吉本芸人のたむらけんじさんが、若手芸人に"米朝師匠のお言葉"として〈やっぱり最後は人間や。どんなに芸がうまくなっても、どれだけ売れても、人間が大事やねん。せやさかい、人間を磨いていかなあかんのや〉という名言をメールで一斉送信しています。それに対し〈芸人生活の指針にします〉など、多くの若手芸人が反応しました」

多くの人に愛された桂米朝師匠。その精神は永遠に受け継がれていく。

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