米国頼みの"歪(いびつ)な防衛"の原点

このように、米国の意のままに操られてきた日本。
そもそも日本国民の行動を規定する日本国憲法自体が、ご存じのように米国によって作られている。タブーの第3弾は、"不磨(ふま)の大典"とされる日本国憲法の"欺瞞"だ。
「同憲法は、GHQ民生局の職員21人がマッカーサー最高司令官の意を受け、わずか6日間で作成。"占領憲法""マッカーサー憲法"とも呼ばれています」(軍事評論家の神浦元彰氏)

そのような短期間で急ごしらえされたもののため、日本国憲法が、合衆国憲法やリンカーン米大統領演説など、歴史文書のつぎはぎであることは明白だと言われている。
同憲法制定時、米国のマスコミも、「これは日本の憲法ではない……日本に対する米国の憲法である」(クリスチャン・サイエンス・モニター紙= 46年3月8日付)と喝破。

ちなみに、近代戦時国際法(ハーグ陸戦法第43条)では、勝者が敗者の主権を無視して恒久的な法を作ってはいけないと規定されている。
「したがってGHQの占領統治を終え、日本が主権回復した52年4月28日をもって、同憲法の無効破棄と新憲法制定を行うのが"正式手続き"でした」(神浦氏)

この"マッカーサー憲法"に、当時、大正デモクラシーにおける代表的理論家・美濃部達吉枢密院顧問は「前文に憲法が国民の意思で制定されたのごとき虚偽を掲げることは、国家として恥ずべきことである」と、一人絶対反対を貫いた。

また、枢密院本会議で憲法を議決した清水澄議長が、GHQの圧力に抗しえなかった屈辱感、無念さから翌年、自決している。
「ところが、米国の強力なキャンペーンの結果、いつしか憲法改正はおろか憲法を論じることさえタブーとなっていったんです。現在、護憲派が"(マッカーサー)憲法があったから平和が保たれてきた"と金科玉条のごとく言うのは明らかに嘘。この憲法があったからソ連軍が侵略してこなかったのではなく、米軍が駐留していたからに過ぎません」(外交筋)

しかし、すべてが米国の思いどおりに進んだわけではなかった。
それが、第4のタブー・吉田茂元首相による米国の再軍備要請の拒否。
「吉田元首相は、経済中心主義、軽武装、日米安保という3本柱の"吉田ドクトリン"を推し進め、戦後日本成長の礎を築いた第一人者です」(自民党長老)

だが、それにより「日本が独立国家として再出発する好機を逃した」と断罪するのは、防衛省関係者だ。
「対日講和条約によって独立主権を回復した日本は、その時点で軍事的・外交的に真の自立した国として歩むべきでした。ところが、吉田元首相は"敗戦後のわが国は、強大なる軍事費負担に耐ええない"として防衛を米軍に依存。徹底した対米追従路線に終始したんです」(同)

吉田元首相は、朝鮮戦争(50年6月~53年7月)勃発時、GHQから求められた警察予備隊の整備指令に反していた。
「この時、米国は国務長官顧問のダレスを日本に派遣。再軍備を要求し、32万5000人の軍隊創設を提示。ですが、吉田元首相は戦争を放棄した(マッカーサー)憲法を盾に再軍備を拒否。警察予備隊から保安隊、自衛隊へと徐々に拡大していく道を選びました」(同)

その結果、戦後70年経った今に至るも、国防を米国に依存する歪な国家から抜け出せないでいるという。
「しかし、政界引退直前、欧米を外遊した吉田元首相は、それまでの政治信条とは真逆の"軍備の必要性"を痛感。吉田学校の池田勇人や佐藤栄作両元首相に再軍備の必要性を説いています」(政治記者)

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