"若貴ブーム"を起こした平成の大横綱
65代横綱 貴乃花
痛みに負けない驚異の精神力!


父は大関・初代貴ノ花、伯父は"土俵の鬼"と言われた名横綱・初代若乃花。
相撲の名門一家に生まれたプレッシャーを跳ね返し、相撲界の頂点に上り詰めた"平成の大横綱"が第65代横綱・貴乃花光司だ。

72年8月12日、東京・杉並区に生まれた貴乃花は幼い頃から父に憧れ、兄の勝(第66代横綱・三代目若乃花)とともに相撲を取るようになる。

小5のときには、わんぱく相撲の全国大会で優勝。非凡な資質を見せた貴乃花は88年2月、15歳で父の藤島部屋に兄とともに入門。同年三月場所で初土俵を踏んでいる。
「実の親子が入門と同時に師匠と弟子の関係になる勝負の世界の厳しさは、当事者でなければわからないでしょう。貴乃花は入門した日から両親を"親方""おかみさん"と呼んで、きちんとけじめをつけていましたね」(ベテラン相撲記者)

兄=若花田、弟=貴花田となった2人が巻き起こした"若貴フィーバー"は、長きにわたって平成の大相撲ブームを牽引した。

89年十一月場所で新十両、90年五月場所で新入幕を果たした貴乃花は、最年少記録を塗り替えながらトントン拍子に出世する。
92年一月場所で初優勝。93年一月場所後、20歳5か月の若さで大関昇進を決めた際には、四股名を父と同じ貴ノ花(のち貴乃花)に改めている。

横綱を前に足踏み状態が続いたが、94年十一月場所後に横綱昇進が決定。
95年一月場所で新横綱・貴乃花は8度目の優勝を飾った。
「96年九月場所で貴乃花が通算15回目、4度目の全勝優勝をしたときの相撲は、平成の双葉山誕生を思わせる素晴らしいものでした。しかし、今思えば、あれが貴乃花のピーク。その後の彼は内臓疾患やたび重なるケガに悩まされ、成績も急降下。絶頂期の輝きを取り戻すことはできませんでした」(三宅氏)

土俵外では宮沢りえとの婚約と破局。兄・若乃花との確執など、スキャンダラスな話題を提供することも多かったが、相撲にかけてはガチンコ一筋。妥協を許さない姿勢は一貫していた。
「若との確執は兄弟対決となった95年十一月場所千秋楽の優勝決定戦で、若乃花の下手投げに貴乃花が不自然な形で土俵を割った一番が原因と言われています。親方に"光司、わかってるな"と因果を含まされたことで、貴乃花の中で何かが壊れたと」(ベテラン相撲記者)

貴乃花が最後の光芒を放った取組といえば、01年五月場所の千秋楽。本割りで敗れた武蔵丸に、優勝決定戦で上手投げで雪辱を果たした一番が挙げられる。
「14日目の武双山戦で右膝を亜脱臼、半月板損傷の重傷を負った貴乃花は休場やむなしと思われていたんです。それが最後の最後に武蔵丸を投げ飛ばして鬼の形相。あれは小泉純一郎首相ならずとも"感動した!"と言いたくなる相撲でした」(スポーツ紙デスク)

結局、これが貴乃花にとって22回目、最後の優勝となったが、曙、武蔵丸ほか大型化する外国人力士を相手に一歩も引かず、けれん味のない相撲を取り続けた貴乃花は日本人力士の鑑といっていいだろう。

大相撲出身の落語家で、若き日の貴闘力と対戦(1勝1敗)したこともある三遊亭歌武蔵師匠が言う。
「貴乃花さんが偉大なのは精神力の強さです。相撲の超エリート一家に生まれた人間が相撲を志すのは並大抵のことではありません。落語界にも古今亭志ん生を父に、金原亭馬生を兄に持ち、自らも名人といわれる噺家になった古今亭志ん朝さんのような例がありますが……貴乃花さんの努力はそれ以上だったのでは」

03年1月に現役を引退。現在、日本相撲協会理事として活躍する貴乃花親方の相撲道にかける思いには、いささかのブレもない。
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