土田晃之「ダウンタウンを2年で抜くって言ってました(笑)」~断わる人間力の画像
土田晃之「ダウンタウンを2年で抜くって言ってました(笑)」~断わる人間力の画像

「やりたいことはやるけど、やりたくないことはやらない。みんなに気に入れれようなんて思って、変に気を遣う必要なんてないですよ」

僕、中学生のとき、勉強がまったくできなかったんですよ。漢字も読めないし、英語なんてもってのほか。自分の名前をTSUCHIDAってローマ字で書けませんでしたからね。

でも当時、とんねるずさんがテレピに出始めた時期だったんですが、彼らが、こんなことを言っていた。
"俺たちは偏差値35くらいの馬鹿高校出身だけど、東大出てるやつには負けねー!"って。あまりに格好よくて、"よっしゃ、芸人になって、東大出のヤツに勝ってやる"って勇気もらいましたからね。

だから、今となれば勉強できなくてよかったなと思います。芸人として成功しなければ、他に仕事は何もできないって思ってましたから、逃げ道がなかった。そう思ってる分、覚悟が決まっていたかな。

高校卒業後に、ウンナンさん出身の日本映画学校って専門学校に入りました。ビートたけしになるならこのクラスって書いてあったので、タレントコースに入ったんですが、お笑いの授業なんて、まったくなくて、ダンスのレッスンとか受けていましたね(笑)。ただ、そこで相方と出会ったんです。

それで相方とコンビを組んで、今の事務所のオーディション受けたら、受かったんですよ。それで、ホットドックプレスとかが取材に来て、もう完全に天狗ですよ。友達が"このままいったら、ダウンタウンみたいになれるんじゃねーの"って言うから、"ダウンタウン? 2年で抜くよ"って言ってましたから(笑)。それから20年以上たちましたけど、今も背中すら見えませんけどね。

20代はがむしゃらでしたね。今田耕司さんや、東野幸治さんの当時の番組を見て、セリフを全部ノートにメモして、ここで笑いが起こるのは、この前のセリフが効いてるんだなとか、相方と2人で研究していました。21歳くらいの時から。レギュラー番組の仕事をもらえて、その後、『ボキャブラ天国』、『銭形金太郎』が続いてなんだかんだで、ずっと仕事はあったんです。

でも、元々ナマケモノで外に出るのが嫌いなのに、ロケのリポーターをしていた『銭形金太郎』の人気が出て、ロケのオファーばかりになってしまったんですよ。毎日のように、東京駅か羽田空港行って地方に行く生活で、ストレスから十二指腸潰瘍に。しかも一年で2回ですよ。そこで、もう無理するのは、やめようとロケの仕事を全部断るようにしたんです。やりたいことはやるけど、やりたくないことはやらない。

確かに、仕事がなくなるかもという不安もあったはあったけど、みんなに気に入られようなんて思って変に気を遣う必要なんてないんですよ。
結局、仕事で結果を残せば、番組に呼んでもらえるし、しくじれば仕事がなくなる。『ボキャ天』ブームの時なんかは、自分なりに愛想よくスタッフさんともつきあっていたんですけど、ブームが過ぎれば呼ばれなくなるんです。

先輩に飲みに誘われても普通に断りますよ。うちの事務所だと上島竜兵に誘われても、"テレビ見たいんで帰ります"って言いますからね。うちの場合は、良くも悪くも、上がダチョウ倶楽部ですからね。別にアソコと仲良くなっても仕事なんて回ってこないし、何ならこっちのおこぼれみたいなのをもらってますから(笑)。

もう20代の頃の野望とか根拠のない自信はないですね。冠番組を持って、MCを何十年とできれば、お金はたくさん稼げると思いますけど、その技量が自分にはないって気がついています。

それよりも、番組が上手く回るようにその時の旬な新人の女の子だったり、ブレイクしたばかりの若手芸人をフォローする立場としての仕事が多いですね。だから、僕自身は世間的にもそんな目立たず、気がついたらいるよねって、それでいいやと思っています。
そのポジションをこれからも、現状維持していければ万々歳ですよ。

撮影/弦巻 勝


土田晃之 つちだ・てるゆき

1972年9月1日生まれ。東京都練馬区生まれ、埼玉育ち。1992年に、お笑いコンビ「U-turn」を結成し、デビュー。翌年には、バラエティ番組『GAHAHA王国』にレギュラー出演し、その後『ボキャブラ天国』で大ブレイク。しかし、ブーム終了後に、仕事が減り、相方が廃業を決意。以後、ピン芸人として活動をスタートさせる。現在は『バイキング』(フジテレビ)の金曜レギュラー、『※AKB調べ』(フジテレビ)、『この差って何ですか?』(TBS)など多数のレギュラー番組を抱える売れっ子芸人として活躍中。

本日の新着記事を読む