元力士・旭道山和泰「土俵の外では毎日、場外乱闘でした(笑)」~美学を貫く人間力の画像
元力士・旭道山和泰「土俵の外では毎日、場外乱闘でした(笑)」~美学を貫く人間力の画像

「人生って、往復じゃなくて、片道ですから。飛び続ける限りは、美しく飛んでいたいですね」

中学を卒業して、すぐに大島部屋に入門したんですが、それまでは、相撲やろうなんて気は、まったくなかったんです。ただ、母親が、中学の卒業式の3日前ですよ。"あんた相撲やってみる気ない? もう話がついているから行きなさい"って。
"嫌だよ"って断ったんですがね、母子家庭だったし、義務教育も終わったことだし、家を出て、金を稼いで、一家の暮らしを楽にする。これも長男の務めかなと思って、入門することになりました。

当時は、身長は178センチありましたが、体重は58キロしかなかった。そんな体じゃ、普通どこの部屋も採ってくれないんですが、大島部屋ができたばかりで、とにかく弟子を集めなければならないという状況だったんで、そこにもぐりこめたんです。

それから、新弟子検査を受けたんですが、検査当日の朝に部屋の体重計に乗ったら65キロしかなかったんですよ。体重70キロ以上なければ受からなかったので、そこからとにかく台所にあった食べ物をかたっぱしから詰め込んで、水をがぶ飲み。
吐きそうになりながら、検査場に行って、体重計に乗ったら、ギリギリ足りないくらいだったんですよ。"やばい"と思ったんですが、親方から、"体重計に乗ったら、体を揺らせ"って言われていたのを思い出して、カタカタって上下に揺らしたんです(笑)。検査官が"動くな、バカヤロー!"って怒るんですが、こっちはもう必死だから"動いてません!"って(笑)。

何度、怒られても揺らし続けたら、根性あるやつだなって認めてくれたのか、無事に合格できました。当時は、そういうことは許されるいい時代だったんですね。

無事に相撲取りにはなれたんですが、それからはもう毎日が、練習でも稽古でもなく修業の日々でしたね。この世界は、1日でも先に入門していれば、同じ年齢でも兄弟子です。兄弟子風吹かせて、"ジュース買ってこい、掃除しておけ"だとか言われるわけです。"コノヤロー"って稽古場で負かしてやろうとしても、相撲取りになろうとするようなやつらだから、体もでかくて、こっちはまだ小さくて、全然かなわないんですよ。
"土俵の外だったら、負けない"と、毎日のように場外乱闘でした(笑)。

小さいから逃げるっていうのが、嫌だったんです。ひいたら、つぶされるだけだし、前にぶつかって行くしかなかったんですよ。
100キロ以上、ある連中が頭から思いっきりぶつかってくるんですから、普通の人だったら、死んでいますよ。ケガはしょっちゅうでした。

15の時には、稽古場で、バーンってぶつかっていったら、鼻っ柱が潰れちゃったんです。そのままにしておくと鼻の骨が潰れたまま固まってしまうから、自分で鼻の穴に割り箸をつっこんで、骨をカッと前に出して直すんです。もう、血は止まらないわ、涙は出るわ。飛び上がるほど痛いんですよ。
でも、土俵のうえで寝転がって痛がるというのは、醜態です。
土俵で寝るということは、死を意味しますから、無理やりでも平気な顔して、土俵を下りなければならないんです。

今は、ケガをしたら休場する力士も多いですが、昔は、股関節が外れてようが、肩がはずれてようが、相手の力士に気がつかれないよう平気な顔して、土俵に上がっていました。
それが、男の美学でしょう。
人それぞれ美学って違うものかもしれませんが、僕はお金とか車とか、物というのは、一時期の預かりものだと思うんです。死んでしまえば、ただのゴミですからね。

だから、そういう物なんかよりも、立ち居振る舞いだったり、自分の美学っていうものを磨いていきたいなと思っています。
人生って、往復じゃなくて、片道ですから。どこで、エンジンが止まるかは、わかりませんが、飛び続ける限りは、美しく飛んでいたいですね。

撮影/弦巻 勝


旭道山和泰 きょくどうざん・かずやす

1964年、鹿児島県出身。中学卒業後に大島部屋に入門し、1980年5月場所で初土俵。次の7月場所で序の口優勝を果たす。88年7月場所で新十両昇進し、89年1月場所で新入幕するや、9勝を挙げる快進撃で敢闘勝を受賞した。最高体重106キロながら、抜群の運動神経で重量力士に果敢にぶつかっていく姿は多くのファンの心を摑んだ。最高位は西小結。96年の衆院選に新進党から出馬し、見事初当選し、00年に政界を引退。現在は、東京・銀座で『焼肉kyoku』、新宿では『ごっつあん酒場 両国』をプロデュースするなど実業家として活躍中だ。

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