佐山聡が語る猪木「本当にやっちゃうんじゃないか、みたいな空気があった」の画像
佐山聡が語る猪木「本当にやっちゃうんじゃないか、みたいな空気があった」の画像

1998年、アントニオ猪木が創設した格闘技団体「U.F.O」に参謀として参加。小川直也を育て、「本物」の強さを追求する佐山聡。
新日本プロレスの黄金時代には、まだ明かされていない真実があった……。重要人物たちのインタビューで当時のプロレスを徹底検証する双葉社ムック「新シリーズ 逆説のプロレス」より、佐山聡の証言を一部抜粋してお届けする。
「ストロングスタイルの復興」を目指す初代タイガーマスクが語る猪木の思想とは?


■佐山聡
さやま・さとる●1957年、山口県生まれ。75年に新日本プロレスに入門し、81年、初代タイガーマスクとしてデビュー。新日本の黄金時代を支えた。83年、人気絶頂のさなかで引退。独自の格闘技理論を実践する活動を展開し、98年、格闘技団体「U.F.O.」に参加した。


1981年~83年にかけて、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ初代タイガーマスクこと、佐山聡。
もはや、生ける伝説となっているタイガーマスクの印象が強い佐山だが、新日本プロレス入門は75年7月と意外に早く、83年8月にタイガーマスクのまま、突如引退するまで実質8年間、新日本プロレスに在籍していたことになる(とはいえ、78年にメキシコに発って81年に帰国するまでは海外での活動がメインなので、実質は5年に満たないぐらいか)。
引退後はシューティング( 現・修斗)の創設や、武道「掣圏真陰流」(旧名・掣圏道)を設立するなど、プロレスとは対極の道をいくことになる佐山だが、その原点はあくまでも10代の頃に入門した新日本プロレスであり、その道場にある。

「僕がいた頃の新日本の道場は、まず山本小鉄さんの基本練習の厳しさがあり、その上には『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があった。さらに毎年、数カ月から半年、カール・ゴッチさんが滞在する期間があって、関節技とか寝技を指導する。それによって猪木さんの思想をさらに植え付けるというような、そういう場でしたよね」
 練習は過酷を極めたが、佐山は「大変だったとは思わない。むしろやりがいがあったし、楽しかった」と振り返る。

「それこそ、スパーリングだけで2時間とかやってましたからね。でも、皆、負けず嫌いだし、お互い意地があるから2時間やっても極まらないんです。僕なんて歯が折れてもギブアップしなかったですから。スパーリング中は、歯が折れた痛みも全然感じないんですよ。今思えば特殊な環境ですよね。じゃあ、なぜそこまでやっていたかといえば、『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があったから。関節技や、ガチンコの部分はなぜあるのかっていうのが、もしかしたらレスラー自身もわかってなかったかもしれませんが、リング上で闘いを見せる上では必要なんだって、そういう風に教え込まれてましたからね。みんな『俺たちがいちばん強い』と思ってましたし、今考えると馬鹿げてると思うけど、当時は、藤原さんたちと一緒に『俺たちってよ、世界で5本の指に入るよな』とか話してました」

上の選手になればなるほど、誰とスパーリングをやっても極まらない。「これに勝つには打撃を身につけるしかない」と考えた佐山は、新日本に黙ってキックボクシングの道場に通い出す。当時の新日本でキックを習っている選手は佐山しかいなかった。

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