佐山の口から次々に語られるプロレス論は、こちらが驚くほどに熱いものであった。
セメントが強くなければプロレスラーではない、という新日本の基本精神にくわえ、もともと強さを追い求めることに貪欲だった佐山。一世を風靡しながら、わずか2年4カ月という短期間でタイガーマスクを引退した彼は、その後、理想の格闘技を求めて自身の活動に専念していく。

プロレス界から完全に遠ざかっていた佐山が新日本と再び接点を持つのは94年。新日本の要請でライガーとのエキシビションマッチをおこなうため、約10年ぶりに新日マットに帰ってきた佐山は、その翌年、初代タイガーマスクとしてプロレス復帰。複数の団体に上がったほか、97年にはファイナルカウントダウンシリーズで、猪木とも初めて対戦している。
10年の時を経て、なぜ佐山はまたプロレスをやり出したのか。

「97年には猪木会長と試合をしました。僕と猪木会長との間には単純な師弟関係以上のものがあるんです……これは僕が新日本にいたころから変わらない。タイガーマスクにしても僕個人のためというより、新日本のため、猪木会長のため、っていう思いでやっていたんですね。だから、その猪木会長との試合も新日本のため、猪木会長のためっていうのがありました」

98年には、猪木が創設した『U.F.O』( 世界格闘技連盟)に参謀的ポジションで参加。もちろん、猪木に請われてのことであったが、ここで佐山は、97年にプロレスに転向し、U.F.O所属となっていた小川直也を指導。両者3度目の一騎打ちで、小川が橋本にシュートを仕かけて伝説となった「1.4 事変」の際は、ジェラルド・ゴルドーらと小川のセコンドに付き、U.F.O軍の一員として、新日本と敵対する立場でファンの前に姿を現すことになる。
いまさら説明するまでもないかもしれないが、この試合、小川はそれまでの柔道着を脱ぎ捨て、スパッツ姿&オープンフィンガーグローブという出で立ちで登場。殺気だった目つきで、過去2戦とは別人のように絞り込んだ体で花道を歩いてくる姿は、何かの覚悟を決めているような、ただならぬ雰囲気を十分感じさせるものであった。
あの試合は一体なんだったのか?

「どこまで話していいかわからないけど、あくまでも当初はプロレスの試合をするはずだったんですよ。橋本っていうのはいい奴なんですけど、小川から見たら(プロレスでは)先輩ですからね」

※全文の前半部分を抜粋。後半は本誌「逆説のプロレス」にてお楽しみください。

取材◎青柳直弥


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「新シリーズ 逆説のプロレス」(双葉社スーパームック)より引用

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