天龍が見た新日本プロレス「猪木さんは夢を語る人、未来に向けての話しかしない人」の画像
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2015年2月9日。プロレスからの引退を発表した天龍源一郎。39年間、闘い続けてきた天龍が、外敵として乗り込んだ新日本プロレスを語る。
新日本プロレスの黄金時代には、まだ明かされていない真実があった……。重要人物たちのインタビューで当時のプロレスを徹底検証する双葉社ムック「新シリーズ 逆説のプロレス」より、天龍の証言を一部抜粋してお届けする。
“ミスター・プロレス”は、新日本との抗争、そしてその選手たちについてどう思っていたのか?


■天龍源一郎
1950年、福井県生まれ。13歳の時に二所ノ関部屋に入門。76年に力士廃業、全日本プロレスへ入団。90年SWSに移籍、92年にWARを設立。98年からはフリーとして活躍。プロレス界の「生ける伝説」。


―WAR時代の後、フリーとなってからは、橋本さんを中心に、蝶野さんや、後年は武藤さん、いわゆる闘魂三銃士を相手にするようになりましたが。

天龍 橋本は見ての通り、ガンガンくるスタイル。突然、挑戦表明をしだしたから、なんで俺がコイツとやらなきゃいけないのかと思ったんだけど(苦笑)。彼は当時くすぶってたから、そこからの脱却を求めてたんだろうね。蝶野は最初はノラリクラリだったけど、後で仙台でやった時、俺が殴ったら、鉄拳でガンガン殴り返してきたんだよね(2004年9月16日)。「おっ、コイツ、骨のある奴だなあ」と思った。さすが昔ワル(不良)だったことはあると(笑)。ただ、俺の中では(闘魂三銃士では)武藤がズバ抜けてたよね。武藤に引っ張り上げられての三銃士だと思うよ。家長が武藤で、他は扶養家族。あくまで俺の印象だけど。

―どの辺りで高評価を?

天龍 臨機応変に対処できるというか、ミスがあってもすぐフォローできるタイプ。ハプニングを演出して、自分で直す感じ。だってファンはそのハプニングを見たがってる部分もあるんだから。後のことになるけど、武藤と福岡でやった時、「これはベストバウト獲れる」と確信したくらいだからね(99年5月3日・福岡国際センター。同年の東スポプロレス大賞・ベストバウトを受賞)。

―とはいえ、武藤さんは、その福岡の試合後、天龍さんを「やっぱりあの人、ミスター・プロレスだよ」と評してますが。

天龍 いや、それは後年のことでね。最初のうちは、「何で俺があんなオッサンとやらなきゃいけないんだよ」って言ってたみたいだよ(笑)。天才というか、物怖じしないタイプだよね。俺があの福岡の試合で雪崩式フランケンシュタイナーをやったのも、「このくらい度肝を抜くようなことやらないと、武藤の上手さに太刀打ち出来ない」と思ったからだし。

―福岡の試合の7カ月後には、その武藤選手を倒して、IWGPヘビー級のベルトを巻きました。

天龍 「してやったり」って感じだったね。大会場でできることを含めて、対新日本に関しては、レスラー冥利に尽きるという部分はありましたよ。

―新日本側はイリミネーションマッチなど、手を変え品を変え天龍さんを攻めてきた印象もありましたね。

天龍 俺は全日本で、いわば〝右vs左〟の試合しかほとんどしてなかったから、逆に新日本という団体の果てしなさとしぶとさを感じましたね。

―団体対抗戦となった10人タッグの3本勝負では、まったく同じ誕生日(50年2月2日生)の木戸修選手とも当たりましたね(93年2月16日・両国国技館)。

天龍 木戸選手は、プロレスが大好きなんだけど、でも、冷めてる人という感じだったね。馳浩もプロレスが大好きな奴なんだけど、彼は逆に気楽なタイプ。世間では馳は上手いって言われるけど、俺の中では、ちょっと違うイメージだった。試合で自分のやりたいことだけやって帰る感じだったね。

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