“立石の落武者”こと、元『週刊プロレス』金権編集長・ターザン山本が語る「佐山聡の圧倒的な“時代性”」とは。

佐山さんには感謝の気持ちしかない。最初の出会いからもう35年以上になるが、いろんなことがあったなあ。猪木さんの付き人をしていた時。初代タイガーマスクになるためイギリスから帰国。試合前、蔵前国技館の倉庫のような場所でひとり出番を待っていた佐山さん。突然タイガーマスクを引退。三軒茶屋にシューティングのジムを開設。さらにUWFに参加してスーパータイガーにも。

ある意味、運命に振り回された人でもあった。そんな佐山さんが私は理屈抜きで大好きだった。タイガーマスクから決別し、新日本プロレスを去った時、新日本の人はみんな「もう、いなくなった人間のことはいいじゃないか……」と冷たかった。暗に佐山のことは記事にするなというプレッシャーである。無言の圧力と言ってもいい。そうだよな。ここで佐山の側に付くと新日本との関係がまずくなる。

だが私は佐山と新日本のどちらを取るかとなった時、佐山を取った。佐山の方に圧倒的〝時代性〟があると判断したからだ。たとえそのことで新日本からにらまれてもかまわない。だから私はよく三軒茶屋のシューティングジムに顔を出した。

一方、新日本の会場に行くとコブラを売り出すためにドン荒川さんがそれをしきりにアピールしてきた。なんとしてもタイガーマスクのイメージを早く消し去ってしまいたかったのだ。そうしたら当時、佐山さんのマネージャー的ポジションにあったショージ・コンチャ氏が堀の内のアパートに住んでいた私に直接会いに来た。条件交渉である。

コンチャ氏からすると佐山を味方してくれるマスコミが必要だったのだ。でもそれは大きなリスクがある。新日本を敵にまわすことになるからだ。そこでコンチャ氏が目を付けたのがこの私である。味方してくれれば素顔になったタイガーマスクを独占取材させると言う。私はまだ『週刊プロレス』の編集長ではなかったのにその場でOKした。全面的に応援するとね。

杉山編集長はあっさりと了承してくれた。横浜の山下公園で佐山の素顔を撮影。新日本からするとプロレス界を去って行った人をなぜ、プロレス雑誌が大きく取り上げるんだということになる。のちに私が新日本プロレスから取材拒否されてマット界を追放される遠因がこんなところにもうあったと言っていい。

佐山は「打・投・極」という本を出し完全にプロレスから格闘技へと舵を切った。その時、時代もすでに格闘技が主役になっていく流れになりつつあった。格闘技がプロレスより上位概念になるきっかけをつくったのは佐山である。

私もそれに相乗りしていきたい。ここまできたら佐山と心中してしまえである。その時、すでに新日本を評価する材料は私の中には何もなかった。面白くないものは面白くない。

プロレス記者なのにシューティングの伊豆の合宿に取材に行ったりした。第一次UWFの末期、佐山が心情的に孤立して追放うんぬんとなった時も私は佐山派だった。そのため今度はUWFからも私は敵視された。私は業界的生き残り方よりも自分が信じる道の方を選ぶ。常に佐山を取ってきた。踏み絵か? リトマス試験紙か? 私は勝手に佐山と時代の共犯者になったつもりでいた。

文◎ターザン山本
1946年、山口県生まれ。「週刊ファイト」のプロレス記者を務めたのち、ベースボール・マガジン社に籍を移す。87年に「週刊プロレス」2代目編集長に就任すると、同誌を公称60万部の黄金時代へと牽引した。96年同社退職。強烈な個性と風貌で毀誉褒貶が激しい人物。

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「新シリーズ 逆説のプロレス」(双葉社スーパームック)より引用

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