「雌伏の時代」から「雄飛の時代」へ!

蔦の40年にも及ぶ監督人生は、二つの時代に分けることができる。前半の20年は甲子園を目前にし、負け続けた「雌伏の時代」。後半の20年は甲子園の常連校になり、勝ち続けた「雄飛の時代」である。

蔦は監督就任3年目の55年秋、早くも徳島県大会の決勝に進出。蔦の母校・徳島商と戦い、0対11で大敗すると、時の校長・真鍋信義からケンカを売られた。
「甲子園に出られたら、わしは池田の町を逆立ちして歩いてやるわい。これからは学業で勝負じゃ!」

蔦は笑顔でやり返した。
「名前が真鍋だから、学べというわけか!」

57年夏は、県大会で準優勝したが、南四国大会の1回戦で敗退。60年夏は南四国大会の決勝まで駒を進めるが、またも古巣の徳島商に苦杯をなめた。その後も毎年負け続け、70年夏には、徳島県の代表決定戦で天敵とも言うべき徳島商に勝ったものの、南四国大会で土佐高に逆転負けし、涙を呑んだ。

当時、野球部長だった元木宏(後に県議会議長)が、苦笑いする。
「蔦はんは気が弱いけん、スクイズのサインを出すとき、緊張しよる。ベルトに触ったらスクイズでしたが、何回もベルトを引き上げるけん、すぐに見破られました」

負けて池田に帰ると、蔦は浴びるように飲んだ。元木によると、酒量は半端じゃなかったと言う。
「まず、学校の用務員室でビールを1ケース(当時・大瓶25本)空け、"ほな、いこか"と、スタンドバーやスナックを4~5軒ハシゴ。毎日でっせ。ツケが溜まり、ボーナスが出た日に、ごっそりママさんに持って行かれたこともある。ヨメはんに叱られるいうんで、私が一計を案じた。月賦でテレビを買うてボーナスで払ったことにしたらどやと。そしたら、本当にテレビ買うて、背中に担ぎ、千鳥足で帰りましたわ」

そんな時代が、20年も続くのである。
転機は71年夏。県大会を勝ち上がり、南四国大会決勝で天敵の徳島商と戦ったときだった。序盤に0対3とリードされると、蔦の弱気の虫がうずいた。

「もう、あかん、あかん」
「蔦はん、勝負は最後まで諦めたらいかん」
元木がたしなめると、蔦は破れかぶれでヒットエンドランのサインを出した。すると、ものの見事に成功。がぜん強気になった。6回には相手の守備が乱れ、同点に追いつき、延長10回裏、満塁からタイムリーが出て5対4で勝利。悲願の甲子園出場を決めるのである。元木が語る。
「大会前の甲子園練習のとき、ノックバットを持った蔦はんが"前から考えとったんじゃが、やりたいことがある。あそこに打ち込むことじゃ"とレフトスタンドを指差し、"かまわんか"と聞くんで、"やったらええ"と答えると、バットを一閃。レフトスタンド中段へ放り込みよった」

蔦は、20年間の万感の思いを込めてバットを振ったのである。

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