"さわやか野球"は"豪打"に変わった

池田の名前が全国区になるのは、74年春。11人の部員でセンバツ大会出場を決め、NHKが「谷間の球児」という番組を制作。"さわやかイレブン"と呼ばれるようになるのである。初戦の函館有斗(北海道)戦は、開会式直後の第1試合。エースの山本智久が振り返る。
「監督とナインがあがっているのを見て、投球練習の第1球を故意にバックネットへぶつけたんです」

蔦の一番弟子だけあって、師匠の気持ちをよく理解していた。部員11人(出場校中最少)の池田は決勝に進出し、部員59人(同最多)の報徳学園に挑んだが、1対3で敗れた。これが木のバットを使った最後の試合になった。

それから5年後の夏、今度は深紅の大優勝旗を手にするチャンスに恵まれる。
ただし決勝の相手は尾藤公監督率いる箕島。池田は8回表まで3対2とリードしていたが、その裏、箕島の巧みなスクイズなどで2点を失い、3対4で逆転負け。箕島戦でマスクを被ったのは、岡田康志(現・池田高監督)である。

「蔦監督は細かい野球では尾藤野球に勝てないと思ったんでしょう。スクイズではなく、外野フライで1点を取る野球は、この試合が分岐点になりました」

2年後、蔦から全権委任された高橋由彦が野球部副部長に就任すると、トレーニング革命に着手する。畠山が2年、水野が1年のときである。高橋が内容を明かす。
「タイヤ引き25mを5セット。ハードル跳び30回を5セット。腕立て伏せ15回を5セット。背筋25回を4セット。バーベルなど、器具を使ったトレーニングが5セット。そして、仕上げがグラウンドの向こうに聳える西山(709m)登りでした。筋トレばかり脚光を浴びましたが、実際はサーキットトレーニング。パワー野球ではなく、科学野球でした」
おかげで水野の背筋力は130㎏から185㎏になり、飛距離が大幅にアップするのである。

高校野球は金属バットの時代を迎え、池田と蔦を待ち望んだのである。
82年夏の甲子園大会は、池田のため、蔦のための大会だった。
準々決勝の早稲田実業(東京)戦は、持ち前の強力打線が爆発し、先発の荒木大輔(後にヤクルトほか)とリリーフの石井丈裕(後に西武ほか)を火だるまにした。

1回裏、3番・江上光治(右翼手)が荒木から2ラン。6回裏、水野(左翼手)が荒木から2ラン。さらに、水野は8回裏にも、石井から満塁ホームラン。池田打線は20安打を浴びせ、14対2で大勝。決勝はバントと機動力野球で久しく高校野球のお手本と言われた広島商を、力で12対2とねじ伏せた。

打って打って打ちまくる野球は、最初で最後の高校野球革命だったと言っていい。初の全国優勝を成し遂げた夜、蔦は生涯最高の美酒に酔いしれた。
「わしは日本一の監督やない! 日本一の酒飲み監督じゃ!」

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