江夏、KKコンビ、大谷…プロ野球オールスター「熱すぎる名勝負」 列伝の画像
江夏、KKコンビ、大谷…プロ野球オールスター「熱すぎる名勝負」 列伝の画像

夢の舞台で繰り広げられたレジェンドたちの熱き戦いの数々。ファンの胸に刻まれたそのプレーを、いま、ここに誌上再現しよう――。

今年の夢の球宴『マツダオールスターゲーム2015』も見どころが多いが、これまでもオールスター戦を舞台に、セ・パを代表するスーパースターが多くの名勝負を繰り広げてきた。オールスター戦で大活躍した選手は"オールスター男""お祭り男"と呼ばれるが、元祖・お祭り男と言っても過言ではないのが、毎日オリオンズの若き主砲だった山内一弘だ。

毎日に入団して3年目、22歳の山内は1954年のオールスター戦に出場し、2試合で8打数5安打と大爆発。翌55年の球宴でも打ちまくり、2年連続で球宴MVPに輝いている。
「山内の、内外角の球をホースで水を撒くように左右に打ち分ける技術は天下一品でしたね。特に内角球をヒジを畳んで打つバット捌きの巧みさは特筆もので、"シュート打ちの名人"の異名を取ったものでした」(ベテラン野球記者)

セ・パ両リーグでエースとして活躍した野球評論家の江本孟紀氏はこう話す。
「かつて"人気のセ、実力のパ"といわれましたが、交流戦のない時代のパの選手にとって、自分たちの力をアピールする機会はオールスターか日本シリーズしかなかったんですよ。だから、オールスターでもパの選手は"セがナンボのもんじゃい"と目の色を変えていた。お祭りとはいいながら、張本勲さんを筆頭にベンチも戦闘モードになってましたからね」

事実、山内はスポーツ紙記者に「新聞の一面に山内の名が大きく出るのはオールスターだけやからな」と話していたという。現役引退後は監督、コーチとしても活躍した山内は09年に76歳で、この世を去った。

オールスターに燦然と輝く快挙といえば、71年、阪神の江夏豊(23=当時)が成し遂げた9連続奪三振がある。オールスターで投手が投げられる最長イニングは3回なので、これ以上の記録は生まれようがない。

この年のオールスター第1戦は7月17日、西宮球場で行われたが、江夏は全パの誇る強力打線を相手に、明らかに"狙って"三振を取りにいっていた。
全パの打線は1番・有藤通世(ロッテ)、2番・基満男(西鉄)、3番・長池徳二(阪急)、4番・江藤慎一(ロッテ)、5番・土井正博(近鉄)、6番・東田正義(西鉄)、7番・阪本敏三(阪急)、8番・岡村浩二(阪急)、9番は投手・米田哲也の代打、加藤秀司(阪急)という強力な布陣だったが、
「江夏は東田と阪本を除く7人を空振り三振に仕留めています。この日の西宮球場は小雨。江夏によれば彼の指の皮は人より柔らかく、すぐに破れてしまうため、雨中での投球は苦手だったそうですが、ファン投票1位のプライドが手を抜くことを許さなかったんでしょう」(前出のベテラン記者)

当時の江夏の投球は速球とカーブが基本。だが、江夏が「最も警戒した」という長池に対しては、珍しくフォークを投げて空振り三振に打ち取っている。
「長池は長距離砲ながら、32試合連続安打の記録を持つ好打者。それだけに江夏も目先を変えたんでしょう。このとき、投じたフォークは今で言うスプリット。指が短いせいもありますが、90年代に主流になる球種を、江夏はあの時代にすでに投げていたんです」(スポーツ紙デスク)

9人目の打者・加藤は1-1からの3球目を打ち、ファウルフライになったが、江夏が捕手の田淵幸一に、「追うな」と叫んだ場面は今も語り草だ。
前出の江本氏も次のように江夏の投球を絶賛する。
「あの頃の江夏はストレートがめちゃくちゃ速かったからね。私も打席に立ったことがあるけど、速すぎて見えないんです。しかも、コントロールもいいし、投球の組み立ても抜群。もう打者はお手上げですよ」

78年のオールスター第3戦で史上初の3打席連続本塁打を放ったのは、阪神の掛布雅之(23=当時)。7月25日、後楽園球場で行われた第3戦。3番サードで先発出場した掛布は第1打席は四球。4回に回ってきた第2打席で、日ハムの佐伯和司からオールスター第1号となるソロ本塁打を右翼席に叩き込んだ。
5回の第3打席は阪急の佐藤義則から右翼席上段に特大アーチ。8回には阪急の山口高志のカーブを右翼ポール際に運んでみせた。
「また、山口は当時、日本最速のストレート投げる投手でしたが、捕手の中沢伸二は掛布の3打席連続を阻止するため、あえて山口にカーブを投げさせたんです」(ベテラン記者)

だが、2球続けたカーブを掛布は見逃さなかった。
腕を畳み、体の回転で打つ独特のフォームで捉えたボールは、満員の右翼スタンドへ一直線。中距離打者だった掛布が長距離砲として覚醒した瞬間だった。

翌79年、掛布は当時の球団記録となる48本塁打を放ち、本塁打王を獲得。78年オフに西武に移籍した田淵幸一に代わってミスター・タイガースを"襲名"した。
「ヒットを打つ技術は持っていた掛布が、あの頃から左方向に大きいのを打てるようになった。ランニングと守備練習に熱心に取り組み、下半身が強化されたことが長打量産の原因でしょうね」(江本氏)

87年のオールスターでは、高校球界のスーパースターだったKKコンビ、巨人の桑田真澄(19=当時)と西武の清原和博(19=当時)の一騎討ちが実現した。
83~85年の3年間、名門PL学園は5大会連続で春夏の甲子園に出場し、1年と3年の夏に優勝、準優勝2回。その原動力となったエースと4番の運命は、85年のドラフト会議をきっかけに暗転する。

巨人の指名を信じて疑わなかった清原だが、巨人は早大進学を明言していた桑田を指名。6球団から指名された清原は西武に入団し、1年目から31本塁打を放って、パの新人王になった。
一方、桑田の1年目は2勝どまり。こうして迎えたプロ2年目に2人のオールスター対決が実現した。

7月28日、甲子園球場で行われたオールスター第3戦。全セの先発・桑田は1回表1死一塁で全パの3番・清原を打席に迎える。その初球、桑田渾身のストレートをドンピシャのタイミングで清原のバットが弾き返すと、打球は放物線を描きながら左翼席へ。
「両手を突き上げて喜びを爆発させる清原と、呆然と打球を見送る桑田の能面のような表情が対照的でしたね」(スポーツ紙デスク)

2回表の2度目の対決は桑田が清原を二塁ゴロに打ち取ったが、野球ファンの軍配は、清原に上がったと言えるだろう。

PL学園でKKコンビの2年後輩だった野球評論家の橋本清氏が回想する。
「桑田さんと清原さんの初対決は、ボクらも寮の大広間のテレビで見ていましたよ。2人はボクらとはレベルが違うスーパースターだし、練習でも桑田さんが投げて清原さんが打つシーンは一度も見たことがなかったので、ただただ緊張して、テレビの画面に集中していたのを覚えています」

  1. 1
  2. 2