楽に勝てたミッドウェー海戦

"対英米開戦やむなし"と判断した山本五十六連合艦隊司令長官は、「開戦直後に真珠湾を奇襲し圧倒的に日本有利な状況を作り、早期講和にこぎつける」構想を練っていたとされる。
「ところが、真珠湾後に陸海軍統帥部が取った戦略は、デタラメの極みでした。緒戦の大勝利で南方資源地帯の確保に成功したのに、さらに戦端を広げ、ニューギニアやソロモン諸島、一時はオーストラリアの攻略まで検討しました」(戦史に詳しいライターの鈴木四朗氏)

戦端を広げすぎると戦力が分散され、補給路の確保が極めて難しくなるのは兵法の常。
「戦争後期は補給路の確保が絶望的となり、前線の兵士に食料や弾薬が届かなくなりました。その象徴が、ガダルカナル島の戦いですよ」(鈴木氏)

ガ島では、米兵との戦闘以上に飢えや風土病で多くの将兵が命を落とした。
「それでも、真珠湾を上回る陣容で挑まれたミッドウェー海戦(42年6月)に惨敗していなければ、まだ勝機は残されていました。博打的要素の強かった真珠湾で攻撃が不十分だったのは、仕方ない部分もある。ただ、圧倒的有利で臨んだミッドウェーでの敗戦は、悔んでも悔みきれません……」(前出の海自OB)

山本長官はミッドウェー海戦を「真珠湾で討ち漏らした米空母の殲滅(せんめつ)」と位置づけていた。しかも戦力は日本側に有利。
「米側は空母3隻、対して日本海軍は空母8隻に戦艦、重巡洋艦、駆逐艦とオールスターキャスト。まともにぶつかれば必ず勝てました。ところが日本は戦力を分散させ、決戦に投入したのは米軍と同等の戦力のみ。これでは数的優位をまったく生かせません。結果、多くは"遊兵(戦闘に参加しない戦力)"となり、主力空母4隻とベテラン搭乗員を100名以上失う大惨敗を招いたんです」(同)

巷間、ミッドウェーの敗戦の原因として、索敵(艦載機を用いた敵艦の捜索)の失敗、暗号が解読されていたこと、攻撃機の換装(敵艦攻撃用か基地攻撃用か)のもたつきが指摘されているが、本当の敗因は戦力を集中投下できなかったことにあったようだ。

ミッドウェーでの敗戦が太平洋戦争の転機となったことは、多くの識者が認めるところ。これ以後、日本は長大に広げた戦線を維持できず、米軍の反攻を受け、ジリ貧に陥っていく。
陸軍の戦闘はどうか。
「太平洋戦争はいわば海軍の戦争。陸軍は海軍に駆り出されて、太平洋中に散らばったわけです。陸軍の戦争は、あくまで中国大陸での戦いでした。そう考えると陸軍は"無敗"に近いんですよ」(前出の黒鉦氏)

開戦直後のマレー攻略戦では世界戦史上類を見ない神速で快進撃を続け、マレー半島を植民地にしていた英軍を駆逐。作戦開始からわずか70日間で難攻不落とされたシンガポールを落としてみせた。
「以後も陸軍は要所で鬼神の如き強さを発揮しましたが、その実、作戦はデタラメなものが多かった。それでも奇跡的な奮闘を見せたのは、前線を指揮する指揮官クラスや兵卒が極めて勇敢だったからです。つまり、上層部が無能揃いのため作戦はデタラメだったけど、現場が優秀だったから無理筋が通ってしまったわけです」(同)

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