新たに発見された史料には…

しかし、これらの説には、信長を討ち取ったあとの光秀の動きが、あまりに杜撰という弱点がある。
「光秀はすぐさま、信長の居城・安土城を接収しようとするものの、瀬田城主の山岡景隆兄弟が瀬田大橋を焼き、明智勢は立ち往生。このほか、光秀の娘が嫁いだ細川家も光秀に味方せず、当初は明智方として動いていた大和の筒井順慶も日和見たを決め込みました」(歴史雑誌ライター)
用意周到な性格で知られる光秀としては意外という他なく、結局、軍勢の絶対的な数の差を見せつけられ、備中から大返しで畿内に舞い戻ってきた秀吉に、山崎で討たれるのだ。

そこで一般的に語られるようになるのが「怨恨説」。
本能寺の変の少し前、光秀は安土城で徳川家康主従の接待饗応を信長に命じられるが、その際の不手際を信長に糾弾され、信長が小姓に命じて、光秀の頭を鉄扇で打たせたことに憤ったなどとする説だ。
また、母を人質に出して丹波八上城主兄弟を降伏させたものの、信長は安土でその兄弟を磔にし、光秀の母を見殺しにしたことを恨みに思ったという説。
このほか、公衆の面前で信長が「キンカ頭(ハゲ頭)め!」と光秀を罵倒。あるときには、信長が光秀を足蹴にしたという話まである。

ところが、この説も弱点や矛盾がある。
「そもそも、光秀が信長を恨んでいたとしたら、信長は、自分を恨む光秀が軍備を整える居城(亀山城)から至近距離の本能寺で、わずかなお供しか伴わず、なぜ逗留したのか。これでは、まるで光秀に"わしへの恨みがあるなら、この機会に討て!"と言っているようなものですから」(前同)
しかも、『信長公記』によると、信長は光秀の働きについて「天下の面目ほどこし候」と、家中で最も高く評価しており、謀叛寸前まで、この主従関係は良好だったと言われている。

一方、昨年の6月、岡山県立博物館などが本能寺の変に関する新史料が見つかったと発表した。それが「四国ルート説に」まつわる新史料(手紙)だ。
もともと四国の長宗我部家と織田家は友好関係にあり、光秀は長宗我部家への取次役となっていた。
ところが、両家の関係は急激に悪化。領地を召し上げるという信長に元親は、「四国はそれがしが切り取った領土。信長卿に与えられたものではない」と反発。

一方の信長も黙ってはいない。本能寺の変が起こる当日(6月2日)、大坂から四国の長宗我部家を討つ織田の大軍が渡航することになっていた。
光秀にしたら、この派兵を中止させないと、四国取次役としての面子が潰れ、織田家中での出世争いに大きく響くことになる。
このため光秀は、重臣の斎藤利三を通じて、なんとか元親を宥めようとする。利三と元親とは縁戚関係にあったからだ。

発見されたという手紙の一つが、織田軍が大坂湾を発する直前の5月21日付。元親が利三に宛てた手紙だ。
光秀の説得が功を奏したのか、そこには、元親がこれまでの態度を軟化させる文言が並んでいる。しかし、それでも信長は四国攻めを強行しようとする。
となると、光秀にとって不満の残る結果となる。長宗我部家の当主が織田家に恭順の意を示したにもかかわらず、四国攻めは実行されようとしていたからだ。
光秀は取次役としての面子どころか、元親や家臣(利三)への面子も立たず、苦しい立場に追いやられる。6月2日の四国攻めを止めさせるには、もはや信長を討ち取るしかない……。

確かに動機としては十分だが、それが謀叛という大それた行動に即、結びつくかは疑問だ。
そこで、当時、光秀が高齢であったことを理由に「認知症だった」「自律神経失調症だった」という説まで飛び出してくる。
このほか、光秀が誰かに操られて謀叛を起こした「黒幕説」もある。
黒幕としては、信長に京を追われた将軍・足利義昭と朝廷が代表的だ。

備後に亡命中の義昭には、信長によって京を追われた恨み。朝廷には、信長が自家薬籠中のものとしている誠仁親王を即位させ、朝廷を牛耳ろうとしているなどの懸念があった。
ただし、いずれも黒幕としての動機は十分だが、これまた、彼らが裏で糸を引いていたという物証はない。
これでは謎解きどころか、謎が深まるばかりだ。

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