高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第2回 裁弘義監督(沖縄県立沖縄水産高校)の画像
高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第2回 裁弘義監督(沖縄県立沖縄水産高校)の画像

1915年(大正4年)から始まった全国高校野球選手権は、今年で100年を迎える。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録と涙のエピソードを取り上げていきたい。第2回目は沖縄県立沖縄水産高校の裁弘義監督。幼少期、沖縄で激戦を経験し、占領下で米軍兵士を見て野球を覚えた少年は、指導者の道を志すようになった。熱血監督が語った野球への情熱と戦争に対する思いを紹介したい――。

裁弘義 さい・よしひろ
●1941年、沖縄県糸満市生まれ。小4で野球を始め、高校時代は糸満高校で野球部に所属したが、甲子園出場は果たせなかった。この頃から高校野球の指導者の道を目指し、中京大学へ進学。卒業後、64年に保健体育の教員として小禄高校に赴任、野球部監督となる。甲子園初出場は75年の春、71年に転任した豊見城高校にて果たした。ここで監督としての才能を開花させると、80年に転任した沖縄水産高校では、同校を甲子園の常連校に育て上げ、夏の準優勝2回など、華々しい成績を収めた。2002年に教員を定年退職したあとも監督を続けたが、07年に肺炎のため死去。享年65。

監督としての甲子園通算成績(部長としての出場含む)
春:出場7回、4勝7敗
夏:出場11回、25勝11敗、準優勝2回(1990年、1991年)

米軍兵士仕込みの"熱血野球小僧"

豊見城と沖縄水産を率い、春夏合わせて甲子園出場17回。監督通算27勝。栽弘義は、押しも押されもせぬ"名将"だが、彼ほど"悲運"という言葉が似合う監督もいない。
大きな瞳と豊かな白髪。トレードマークは人懐っこい笑顔だったが、その裏には深い哀しみが隠されていた。

栽は1941年(昭和16年)5月11日、沖縄本島の最南端、糸満市で生まれている。日本軍が真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争に突入する半年前のことである。彼の歩んだ人生は、そっくりそのまま沖縄の戦後史と言っていい。
「ボールを握ったのは、小学校4年生のとき。ソフトボールを米軍兵士からプレゼントされ、見よう見まねでキャッチボールを始めました。ボールもグラブも、バットも、すべてが米軍のお下がり。その頃、沖縄の男の子は、10人中10人が野球小僧でした」

沖縄の高校が初めて甲子園に出場したのは、58年夏の首里高校。その首里高校と沖縄大会の準決勝で戦ったのが、栽のいる糸満高校であった。栽は2年生ながら、3安打を放ち、そのうち1本がホームラン。当時、沖縄でホームランは珍しく、栽は大会の「打撃賞」を受けている。

彼が愛用したスパイクは、米軍のお古。価格は2ドル50セントだった。
「スクラップ回収のアルバイトをして買いました。激戦地だった本島南部は、ひと鍬掘っただけで、鉄の破片が出てきた。それぐらい、戦争中、沖縄には大量の砲弾が降ったんです」

首里戦が契機になり、栽は高校野球の監督を志す。
「ベンチから首里の福原朝悦監督を見て、本当に羨ましかった。沖縄の高校で、教員が監督をしているのは珍しかったですから。糸満高校は、監督が顔を出すのは週1回。選手と行動を共にしなければ、絶対に強いチームはできないと思いました」

栽は中京大に進学し、大きな衝撃を受ける。
「沖縄の野球に一番欠けていたのは道具でした。特にバット。説明するまでもなく、最も良質なバットはプロ野球が使う。次いで社会人、大学、高校。使い物にならないバットが沖縄に来るんです。なにしろ、ヘッドとグリップで木目が違う。試し打ちすると、一発で折れました。だから、道具はどのメーカーのものがいいか、工場にまで足を運びました。それが沖縄に帰ってから役立ったんです」

大学時代は、ほろ苦い思い出しかない。
「沖縄出身ということでイジメられました。沖縄の子が素足で走っている姿がテレビに映し出されたらしく、"お前、靴なんかいらないだろう"と、脱がされたことがあります。沖縄に限らず、砂浜を走るとき、素足になるのは当たり前です。年配の英語教師には、授業に出るなと言われました。沖縄の日常語は英語だと思い込んでおり、抗議すると、"発音に自信がないんだ"と言われ、開いた口が塞がりませんでした」
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