屈指の強豪校でも優勝旗は遠く……

90年からは2年連続、夏の甲子園で決勝にまで進出するが、いずれも準優勝に終わった。
記憶に残るのは、大野倫。90年夏は5番・右翼手として出場し、26打数9安打(打率3割4分6厘)。91年夏は、右肘を痛めながらも6試合すべてで完投。決勝の大阪桐蔭戦は、6対2と4点リードしながら、5回裏に6点を奪われ、逆転された。

栽にとっては、これが深紅の大優勝旗に最も近づいた瞬間だった。
2年連続決勝戦で敗れ、栽が語った言葉が独り歩きするようになる。
「沖縄のチームが優勝しない限り、沖縄の戦後は終わらない」

栽は事実確認に訪れた記者に、憤然と語った。
「事実誤認です。戦争と野球は違う。そんなことを言ったら、戦争で亡くなった方に失礼だ!」

怒りは収まらなかった。
「私は姉3人を亡くしています。一番上は、集団自決。生前、母は周囲に口止めし、私が事実を知ったのは、母が死んでから。2番目と3番目の姉は、戦争中に行方不明になった。栄養失調で死んだという話を聞きましたが、本当のところはわかりません」

栽自身も4歳のとき、手榴弾を浴び、背中に大ヤケドを負った。
「アメリカ兵から"防空壕を出ろ!"と言われ、怖くて出られず、手榴弾を使われたんです。私は母の背中に負われていたので、大ヤケドを負いました」

栽は大人になってからも、暗闇を怖がった。甲子園期間中、宿舎で寝るときは、部屋を真っ暗にしなかったという。幼少時代の体験が、そうさせていたのかもしれない。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5