海外遠征への切符がつかめる第3回ヤングライオン杯(87年3月)では、優勝と準優勝を分け合った蝶野と橋本。それをなぞるかのように蝶野が選手会長を務めると、その後を継いだのは橋本だった。

蝶野  選手会長時代、ケガした選手のために積立金を残そうと、1000万円ぐらい積み立てたんです。だから、三沢威選手(92年引退、現・新日本プロレスメディカルトレーナー)がケガした時(獣神ライガーの浴びせ蹴りで頸椎損傷)には、そこから200万円くらい出したんです。ところが、俺の次に選手会長に就任した橋本選手が、その金で家でちゃんこやったり、地方で若手とメシ食う時に使って、あっと言う間に1000万がなくなった。それで橋本選手は、マジメな馳(浩)や(佐々木)健介に、道場の会議で吊るし上げられたんだけど、俺と武藤さんがかばって手打ちにさせたんだよね。

永島  揉めてるなっていうのは倍賞から聞いてた。橋本らしいというか、憎めないヤツなんだけど。

闘魂三銃士が中心になっていた時期の新日本は、天龍源一郎率いるWARとの抗争や、両国国技館7連戦など、次々と大仕掛けを成功させる。そんな中での永島氏の代表的な仕事と言えば、UWFインターナショナルとの全面対抗戦だ。

蝶野 もともとは俺が2回目のG1に優勝した直後、『週刊ゴング』で「高田延彦と闘いたい!」と言ったの。そしたら、むこうが(ルー・)テーズさんを使って抜き打ち訪問してきて。それから10日くらいしたら新日本の事務所にUインター側の3人がやってきた。じつはその時、俺も事務所にいたんですよ。

――3人というのは、宮戸優光選手、安生洋二選手、鈴木健社長ですね?(すべて当時の肩書き)

蝶野 そう。それで隣の部屋で会談がはじまったから「これ、どうすればいいかな? 出ていったほうがいいのかな?」と。というのは、高田さんを尊敬してて、やりたかったのも確かなんだけど、じつはその『ゴング』のインタビューの時って、2回目のG1で首を痛めてて「G1王者の称号も、優勝でもらったNWA(世界ヘビー級)のベルトも辞退したい」みたいなテンションだったんですよ。その分、なにかリップサービスしなきゃと思って、高田戦を口にした部分があったから、これは責任を取らなきゃいけないなと。でも、たしか長州さんに「出るな」って言われて。その少し前にも、長州さんからインターの件に関しては「絶対にお前のことは守るから」って言われてて。

永島 蝶野が怪我してたのはわかってたから。それと、Uインターの目的も、本当は蝶野じゃないわけよ。こっちはそれがわかってた。要するに、新日本にケンカを売ったという、彼らなりの話題づくりね。だから「そんなにやりたければ、3000万出すならやろう。でも、まずマサ斎藤、橋本、健介の3人と、巌流島でやるということでどうだ?」と。そしたらむこうは矛先を収めたよね。


※全文の一部分を抜粋。全編は本誌「逆説のプロレス vol.2」にてお楽しみください。

取材◎若瀬佐俊

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「新シリーズ 逆説のプロレス vol.2」(双葉社スーパームック)より引用

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