新日本は05年11月にユークスに身売りし、混迷状態にひとつの終止符を打った。同年7月には、橋本真也が40歳の若さで永眠。彼もまた、新日本という荒波に翻弄された一人だった。

蝶野 橋本選手とは、亡くなる1カ月くらい前に会ってます。前の年の11月にZERO─ONEを追い出されたわけだけど、その相談も受けてた。「大谷(晋二郎)と(中村)祥之は絶対に許せない。アイツらの命を取るまで、俺はリングに戻れない」っていうようなことを言ってたから、「橋本、やめろ。会社を取った、取らないじゃなく、リング上の橋本真也を重視したほうがいい」と。祥之に関しては、ZERO─ONEの最初の頃から「祥之には愛情があるのか? 人に頼りすぎるのはよくないぞ」って話をしてたの。だけど、橋本選手はやっぱりアイツがいないとなにもできないってことだった。で、05年の5月14日に東京ドーム大会があったから、俺の算段としては三銃士をリングに集めて、俺が引退を発表してもいいんじゃないかと思ってた。

――引退ですか。

蝶野 武藤さんはこの時、ロン・ウォーターマンとやったんだけど、橋本選手からはその日、連絡があって「会場近くまできたけど、取り立てのトラブルがまだ残ってて、今日リングに上がれねぇわ」と。で、翌月に会ったんですよ。そうしたら顔が真っ青で「心不全がひどくて、7月末ぐらいにカテーテルの手術をする」「ハッスルも祥之たちと取り合いになってるけど、8月末に改めて旗揚げしてやる。復帰までの映像も撮り溜めて、映画にできるといいな」とか、話しててね。「蝶野、協力してくれよ」ってことで、俺は 「わかったわかった」って言って別れた。だから7月に訃報が入った時は、あの時の顔色の悪さを、まず思い出してね……。

永島 ……。俺が最後に会ったのは、WJと対抗戦をやった時(03年12月14日、両国国技館)だったな。体調は悪かったけど、その時はまだ肩が悪いだけだった。憎めない、いいヤツだったよ。今日は蝶野に会えて嬉しかった。俺の退団から13年ぶりだもんな。今日のやりとりでもわかるように、バランス感覚もリーダーの素養もしっかり持っているのが蝶野。俺は、第2の蝶野がこの業界に出てくることを期待したいね。


※全文の一部分を抜粋。全編は本誌「逆説のプロレス vol.2」にてお楽しみください。

取材◎若瀬佐俊

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「新シリーズ 逆説のプロレス vol.2」(双葉社スーパームック)より引用

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