藤波辰爾が語る、新日本社長時代「橋本を解雇せざるを得なかった」の画像
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猪木や長州らと数々の名勝負を演じた、"ミスター新日本"藤波辰爾。次の世代が勢いに乗るG1クライマックス第3回大会では、負傷欠場した長州の得意技をくりだし、優勝をもぎとった。絶賛発売中のムック「逆説のプロレス vol.2」(双葉社)の中から、藤波辰爾がG1の思い出から、社長時代、新団体参加までを語った特集インタビューをお届けする。



■藤波辰爾 ふじなみ・たつみ
●大分県出身、1953年生まれ。72年、アントニオ猪木の新日本プロレス旗揚げに参加し、80~90年代の長きにわたって新日本のエースとして活躍。99〜04年に新日本の社長を務めた。06年、新日本を退団し、弟子の西村修が立ち上げた無我ワールド・プロレスリングに参加。08年、西村の離脱で団体名をドラディションに変更し、現役続行中。15年3月、猪木に次ぐ日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした。


―― 第1回大会のG1から出場している藤波さんですが、リーグ戦を戦うのは1986年の第4回IWGPリーグ戦以来でしたね。

藤波 そうですね。でも、G1みたいな連戦形式は、むしろ好きな方でしたよ。ぼくらは昔からずっと年間250〜260試合をこなしてきてたから、休んじゃうとかえって調子悪いんですよ。だから、あまり試合をやってないいまなんか、調子悪いよね。

――ご自身は93年の第3回大会で優勝を果たして、準決勝では武藤さんに新技の胴締めドラゴンスリーパーで勝ちました。

藤波 必死になって出ちゃった感じですね。決勝で馳を破ったサソリ固めも。思わず「長州〜!」って叫びながらね。あの時、長州は東京逓信病院に入院していましたから、聞こえるわけはないんだけど(笑)。時期的にも、三銃士や馳の勢いを感じた大会でしたね。

――長州さんは第6回大会(96年)で優勝したんですが、決勝の蝶野戦で、大会に出場してなかった藤波さんが、セコンドで長州さんに張り手を見舞ったのを覚えてますか?

藤波 えー? 覚えてない。僕らしくない行動ですね。長州ってね、じつはものすごく繊細な男なんだよね。下の世代に対して、「俺を踏み台にしろ」みたく割り切って出てた部分があったと思う。僕が優勝した時は、長州がいない。長州が出た時は、僕がいない。この状況の中で、自分が若い世代のサポートにまわってたら、ちょっとおかしくなるだろうって思いでの優勝でしょうね。

――2000年代もG1に参加された藤波さんですが、その時期になると、川田利明選手なり初対戦の相手も増えましたね。

藤波 川田選手は、全日本育ちで、あきらかに呼吸が違ってましたね。それをより感じたのは三沢光晴選手( 07 年9 月9 日・日本武道館。藤波、西村修vs三沢、潮崎豪)。川田選手は蹴りを使うから、まだ僕には動きが読めるんですよ。ところが、三沢選手は、もうまったく違う空間を持っていた。新日本育ちは隙あらば攻めるという感じだけど、三沢選手はワンテンポ違って、どっしり構えてる。いわゆる、王道ってやつですかね。あれはすごく新鮮な経験でしたね。

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