89年6月に腰を負傷し、翌年9月に復帰した藤波。その間に、新日本プロレスは、従来の地方サーキット方式から、週末開催を前提にした、大都市集中型の興行形態になっていた。藤波はそれにより、リング上の闘いにも変化を感じたという。

藤波 興行については、変えざるを得なかったんですよね。昔は1カ月ぐらいのシリーズが8回あって。下世話な言い方ですけど、札幌、仙台、東京、大阪、広島、福岡、沖縄みたいなおいしいところは新日本が自主興行をやってしまう。あとのところは全部、売り興行ですよ。売れちゃうわけだから。うらやましい時代だったけど、猪木会長がいなくなって、長州がスポット参戦になった。僕が今度は腰痛っていう中で、プロモーターが離れちゃう。じゃあ新日本は、どういう興行をして行けばいいのかと。プロモーターの中にはいままでみたいな興行数は買えないけど、ひとつシリーズを組んでくれれば、うち2大会ぐらいは買ってもいいですよとか。だから、こういう形態を組まなきゃいけなくなっちゃったんだよね。

――毎試合が、イベントっぽくなってきたと思うのですが、それによるリング上の変化も感じましたか?

藤波 ありますね。良し悪しは別として、ラリアットとか、派手でわかりやすいプロレスに。昔はヒザ、顔、ヒジをすりむいてるってのは、頻繁にあって。それは試合がレスリング主体だったからですけれど、そういう選手が少なくなりましたね。

――そんな中、ご自身は90年9月、新日本内の組織として、ドラゴン・ボンバーズを旗揚げされましたね。大相撲を廃業した、南海龍さんという新弟子がいて。

藤波 彼の話になると、僕は頭が痛いですよ(苦笑)。僕が小錦と仲が良かったことから引き受けたんですけど、酒癖が悪くてね。何度も警察に呼ばれて、引き取って。何度、お酒を止めろと言っても、聞いてくれなくて。

――最後はそのままフェードアウト?

藤波 いや、ほんとにいまだから言えるけどね。大きな大会で南海龍をお披露目する1週間前、真夜中の2時に電話が鳴って。その時間にかかってくる電話って、ろくなもんじゃないよね。案の定、警察からで。泥酔状態で、南海龍がノーヘルで乗ってたバイクを投げつけて、車を1 台壊したと。クビにせざるをえなかったですね。それも、その車の持ち主が、大変有名な方で。

――それもあっての警察沙汰というか。

藤波 いや、車の持ち主が誰でも、1台壊した時点でアウトでしょう(苦笑)。

――ボンバーズには、いま、新日本でヒールをしている飯塚さんもいらっしゃいました。

藤波 いまもあれはあれで、いいんじゃないかな。ただ、彼自身は、すごく素直でいい男でしたよ。

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