コンサート会場には常にホンモノの暴走族が取り巻き

中森明菜や南野陽子がブレイクしたツッパリ全盛の時代をすぎ、80年代も後半のバブル期に突入していくと、ヤンキーアイドルも様変わりしてくる。「リアルヤンキー路線」ともいうべきか、街でハデに遊んでいたような等身大のヤンキー少女たちが芸能界デビュー、次々とブレイクしていったのだ。

80年代ディスコの定番ナンバー「ダンシング・ヒーロー」のカーで大ブレイクした荻野目洋子。「中学時代、オール1だった」「初体験? 高校の時、先輩と」とインタビューでさらけ出していた飯島直子。別れた男が毎日のように部屋の前に花を置いていくのを見て、「うちは事故現場じゃねーんだよ!」ってツッコんだのはリアルヤンキーならではの痛快さだ。

日活の成人映画でデビューした美保純を「アイドル」のワクに入れるかどうかは、議論の余地があるかもしれない。だが静岡の不良娘出身、芸能界デビューのきっかけも「ディスコクイーンコンテスト」の優勝という美保純が、ドラマや映画でなにかと重宝されたのは「近所のスナックにいる癒してくれそうなヤンキー姉ちゃん」というリアリティだろう。見た目はワルそうだが気立てはいい、「アタシバカだからむずかしいことよくわかんないけどサ~」といいながら時に芯をくった発言をするという唯一無二のポジションが、今もって大衆からもとめられているのは『あまちゃん』からの再ブレイクでも証明ずみである。

だがこの時期、誰よりリアルヤンキーから熱すぎる支持をえていたのは「北関東の姫」工藤静香だった。ヤンキー漫画『ろくでなしBLUES』で彼女をモデルとした「工藤静香子」の婚約報道でキャラクターがショックを受ける、というエピソードがあるように、工藤静香とはヤンキーカルチャー全盛期に咲いた大輪の薔薇(紫色)なのだ。

おニャン子クラブ在籍中から、そのメンバーのなかでも異彩を放っていた。おニャン子は原則、学業最優先だったが、「学生時代に年上をパシリに使ってた」「楽屋に制服を忘れて1週間登校しなかった」というヤンキー気質は水をえた魚のようにソロ活動で花ひらく。

『MUGO・ん…色っぽい』『嵐の素顔』『慟哭』。地底を這うようなケレン味たっぷりのビブラード、激しいダンスにもゆるがない前髪、鋼鉄のごとき肩パット。ちょうど自殺騒動の渦中にいた中森明菜と入れ替わるように、静香の「マブさ」に全国のヤンキー少年たちは感染した。コンサート会場にはつねにホンモノの暴走族が取り巻き、ライブ終了後には、暴走族がどっちが静香を先導するかで仁義なき戦いをくり広げていた。

しかし、その時だった。
「いい加減にしろ! アタシが通れないじゃねぇかよ!」
甲高いあの声で一喝した静香。あまりの剣幕に、ケンカは一気におさまったという。

その後も静香は、極道の妻役を演じてみたり、作詞家として「愛絵理」という「らしい」ペンネームでデビューしてみたり、主演したデコトラ映画では自らトラックをペインティングしてみたり、YOSHIKIや的場浩司など数々の浮き名を流しながら、「元々静香のファンだった」という天下のキムタクを落として姐さん女房におさまってみたり……と姐御伝説にはキリがない。

麻雀でいえば役満、フランス料理で言えばフルコース。三原じゅん子姉御のように武闘派ではないが、ヤンキー文化の要素をひとりで網羅する存在こそ工藤静香その人なのである。80年代のヤンキー文化が生み出したモンスター、工藤静香。90年代以降も相川七瀬やモー娘。後藤真希、AKB板野友美まで、雨後の筍のように次々とヤンキーっぽさを売りにするアイドルや歌手がデビューしたが、静香に肩をブツけられる、おっとまちがった、肩を並べられる存在はいまだ出てきていないのである。



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