改造学生服からなめ猫まで! ヤンキーファッション大研究の画像
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ラッパズボンを履くことがヤンキーへの第一歩

「ヤンキー」という言葉が不良の代名詞になったのは、1980年代になってからのことだ。それまでは「ツッパリ」、あるいは単に「不良」などと呼ばれていた。まあ、呼び方はどうであれ、落ちこぼれ……と言って語弊があるなら、ワル連中にとって大切なことは、自らの信念に基づいたスタイルを完遂することであって、呼称の問題ではない。要するに人様にどう呼ばれようが知ったことではないのだ。

しかし、である。どのように呼ばれるかは気にしなくとも、どのように「見られるか」には大いにこだわるのが彼らの気質だ。そもそも、大体が不良だのヤンキーだの言っても、所詮は10代を中心とした思春期の子どもである。言うまでもないが、思春期の男女にとってもっとも優先すべき出来事は、異性にどう見られるか? つまりは、モテるかどうかだ。それゆえに、彼ら(彼女ら)は彼らの間だけで共有する価値観のなかから、一種の独特のカルチャーを生み出して行くことになるのだ。当時、彼らから派生したカルチャーは数多くあるが、まずはファッションから語り始めよう。

前にヤンキーの大多数が10代と述べたが、当然ながら一部のドロップアウト組を除けば、ほとんどが就学生であり、なかでも中学生は義務教育である。そして、日本の中高には制服文化が鎮座している(いまもそうだ)。基本的に反逆児たらんとするヤンキーは、大人の決めごとにはことごとく反発するモノ。そこで生まれたのが、制服の改造という文化であった。

1970年代後半、ヤンキー(不良)たちにとってまず制服の改造すべき部分は、ズボンの裾と上着の長さであった。特に、裾の部分が広がっている「ラッパ」はオシャレ=格好いいとされ、ラッパズボンを履くことがヤンキーへの第一歩とも言えた。むろん、素人にどうこう出来るシロモノではないので、「理解のある」仕立屋に発注するのがオーソドックスであった。さらにラッパの裾部分は、ダブルと呼ばれる折り返しが入っているものが好まれていた。

そして上着。これは、「中ラン」と言われる通常のモノよりもやや長めで、ウエスト部がキュッと締まっているものが定番である。当時の不良を知らない人は、「もっと長い、長ランがいいのでは?」と思う人もいるかもしれないが、長ランは大学の応援団などが着用する作業着のようなモノで、中ランこそが不良のステータスであった。上着の内側には、それぞれ好みの刺繡と自分の名前を入れることが流行っており、絵柄は龍や虎など、和柄の彫り物のようなデザインが人気を集めていた。つまりは、例え真面目な生徒であってもラッパズボンを履いて、刺繡の入った中ランを羽織れば一丁前の不良の完成である。もっとも、その格好で表を闊歩するということは、"喧嘩上等"を宣言しているのに等しく、ましてや喧嘩の戦果として、「制服狩り」が横行しているなかで、なんちゃって不良を気取る度胸があるものはいなかったが。

この日本の不良独自の制服ファッションであるが、1980年代に入ると趣向が一変、上着は短めの「短ラン」、また、ズボンも裾部分を少し絞り気味にし、ウエスト部分にタックを入れて膨らませた「ボンタン」と呼ばれるものが主流となっていく。ここら辺りの変遷は、不良といえども世の風潮にあわせる若者らしい感覚が息づいている。

さらに言えば、不良の制服ファッションとしては、通学に使う皮カバンを薄く潰す、取っ手部分にテープを巻くなどの細分化されたこだわりがあるのだが、そこを追求するとファッションだけで紙幅が尽きてしまうので割愛しよう。

ただひとつ、それらに付随するアイテムとして忘れることが出来ないのが、原宿に店舗があった50年代風ファッションの『クリームソーダ』である。特に、トレードマークのドクロをあしらった財布は地方の不良を中心にブームを呼び、その余波は当の不良たちが"クリソ"ブランドに興味を無くした後も、不良に憧れる若者たちに人気を博したものだ。

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