テリー伊藤&「ひょうきん族」プロデューサーが語る『80年代テレビ凄すぎ伝説』の画像
テリー伊藤&「ひょうきん族」プロデューサーが語る『80年代テレビ凄すぎ伝説』の画像

「テレビがつまらなくなった」と今、さまざまな場所で言われる。テレビの黄金期、80年代を突っ走ってきた2人のレジェンドに、当時の凄さを語ってもらった!

「当時の予算はとんでもなかった」と語るのは、本誌連載でもおなじみの演出家・テリー伊藤さん(65)だ。

「バブルの頃、とんねるずの特番でニューヨークでちょっと遊んで、そこからロンドンに行って、軽くサッカーをやって帰ってくるという番組をやりました。そのとき、ニューヨークからロンドンまでは、コンコルドに乗ったんだよ。当時、チケット代は片道100万円ともいわれていた。乗ったのはスタッフ含めてン十人。豪勢だったよね~」

他にも、深夜にもかかわらずアメリカまで行き、中古車を買いつけてくる様子を見せるだけの番組をやっていたというテリーさん。
「深夜だから制作費は安いけど、スポンサーから別枠予算がつくから、そんなことができた。スタッフもビジネスクラスに乗って移動して、高級ホテルに泊まって、美味いもの食って、片手間に映像を撮ってね」
と、当時の豪快すぎる金事情を語ってくれたテリーさんだが、番組制作に懸ける思いも激アツだった。

「60年代、70年代の番組はほとんどがアメリカのパクリだった。アメリカに行ってきた連中は、企画会議で得意げに"アメリカではこれが流行っている"なんて語ってたけど、"何言ってるんだよ"と思っていた」

当時、バラエティのセットもみんなアメリカのパクリだったというが、
「私は自分で絵を描いて美術さんらとケンカ腰でやり合っていた。とにかくオリジナルにこだわっていました。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日テレ系)も『ねるとん紅鯨団』(フジ系)もアメリカにはないもの。模倣は絶対にダメだと思ってやっていましたね」

一方、まだ若手だったビートたけし、明石家さんまらが出演し、80年代のテレビ界に衝撃を与えた番組『オレたちひょうきん族』で2代目プロデューサーを務めたフジテレビエグゼクティブディレクターの三宅恵介さん(66)は、「予算に関しては、今とそんなに変わらなかったですよ」と話す。

「今の若手にも"昔はたくさん予算があって好きなことやれていいですよね"と言われるんですが、そうではないんです。重要なのは、あるお金でどうやるか、その知恵を絞ること。好き勝手できるより、制限、条件があったほうが、面白いものができると思うんです」

『ひょうきん族』が始まった81年、真裏には、平均視聴率27.3%という怪物番組、ドリフの『8時だョ! 全員集合』(TBS系)があった。三宅さんは、「とても勝とうなんて思ってはなかった」と言うが、
「ドリフを意識して自分たちを制限していった。ドリフの反対をやったんです。向こうがチームプレイだからこちらは個々のキャラクターを生かす。向こうが生だからこちらはVTR。向こうの対象が小学校低学年だったらこちらは少し上を狙う、と。そうして決まった条件の中で、何がやれるかというのを演者とスタッフで考えていったんです」

そうして瞬く間に人気番組になっていった『ひょうきん族』だが、"子どもに見せたくない番組"の上位にも位置付けされていた。

だが、三宅さんが視聴者からのクレームで苦しんだことや、昨今テレビ界で問題視される"自主規制"をすることはなかったという。
「片岡鶴太郎さんとたけしさんでやっていた"おでんの芸"。おでんは湯気は出ていますが大して熱くはない(笑)。あれは鶴太郎さんのボケの演技で、それが一流だから、"可哀相"ではなく"笑い"で伝わるんです。今は、演者の腕がない、演出家が伝える方法を知らない、だから、可哀相になってしまうんですよね」

三宅さんは先月放送された自社の『27時間テレビ』にも言及してくれた。
「今年は、『めちゃイケ』チームが作ったんですが、彼らは全部、先に決めてしまう作り方。それが俺からすると、わざとらしくてね。俺は深夜のさんまさんのコーナーを担当して、その後、さんまさんとも話しましたが、生放送なんだからドキュメンタリーを伝えないとね」

豪快さ、繊細さ、創意工夫に心意気、そして何よりパワーがあふれていた80年代のテレビ。面白かったのは当たり前なのだ。

本日の新着記事を読む