バントは愚の骨頂フライで1点取れ

1965年夏の甲子園大会決勝は"ヤマの子とウミの子の対決"と呼ばれた。三池工(福岡)が炭鉱町、銚子商(千葉)が漁師町だったからに他ならない。

試合は三池工の左腕・上田卓三(後に南海、阪神)と銚子商の右腕・木樽正明(後にロッテ)の好投で、息詰まる投手戦になった。
0対0の均衡を破ったのは、三池工。7回表、一死から左打席に入った5番・林田俊雄(一塁手)が、バットを短く持って流し打ち、レフト前ヒット。

三池工の監督は、原貢であった。
「木樽の球がめちゃくちゃ速かったので、バットをワングリップ短く持たせた。前夜、俺がグリップに白い布きれを巻いたんだ。そうすりゃ、ベンチから一目瞭然。バットを長く持ったら、白い布きれが隠れるからな」

6番・池田和浩(遊撃手) が打席に向かう。当時は、一死からでも、バントで走者を進めるのが常套手段だったが、貢はバントが嫌いな監督だった。
「バントというのは、監督の無能さを表している。ましてや、スクイズなんていうのは愚の骨頂。監督なら、狙い球を選手に指示し、外野フライで1点を取る野球を目指すべきだ」

その頃、練習時間の7割を打撃に割くチームは、日本のどこにもなかった。
6番・池田は四球を選び、一死一、二塁。7番・瀬川辰雄(左翼手)は三振に倒れ、二死になったが、8番・穴見寛(捕手)が先の林田同様、バットを短く持って振り抜き、カーブをレフト前ヒット。三池工が1点を先制した。
「木樽のカーブを狙え!」というのが、貢の指示だった。

三池工応援団が陣取るアルプススタンドは、「炭坑節」の大合唱になった。
「月が出た出た、月が出た(ヨイヨイ)。三池炭鉱の上に出た」ねじり鉢巻きでランニング姿のヤマの男たちが放歌高吟するなか、7歳になる少年も声をからした。原辰徳だった。辰徳は小学校が夏休みとあって、母・カツヨに連れられ、アルプススタンドで応援していたのである。

9番・上田の初球がパスボールになり、三池工は労せずして1点を追加。2対0とリードすると、貢は上田を呼び、助言を与えた。
「銚子商打線はインコースを振らない。内角にさえ投げていれば、大丈夫」そのとおり、上田は内にストレートとカーブを配し、2対0で完封勝ちを収めるのである。
工業高校の優勝は、後に68年春のセンバツで大宮工が達成するが、夏の選手権大会は、それ以前も、それ以後もない。

三池工ナインが故郷・大牟田市に凱旋したのは、8月25日。彼らは10台のオープンカーに分乗し、パレードに臨んだ。人口21万人の町に、なんと30万人が殺到した。2年前には、「戦後最大の産業事故」と呼ばれる三井三池炭鉱三川坑の炭塵爆発があり、458人の労働者が命を奪われていただけに、斜陽の炭鉱町は沸きに沸いた。電信柱に登ったヤマの男たちは雄叫びを発し、紙吹雪を撒き散らした。

先頭の赤いオープンカーに乗った貢は、右手に花束を持ち、晴れやかな笑みを浮かべた。
30万人の群衆の中には、辰徳もいた。人々が押し合いへし合いするなかで、大人たちに何度も足を踏まれ、悲鳴を上げた。
「野球というのは、こんなにも人を喜ばせるものなのかと思った……」

辰徳が告白したのは、貢の密葬があった2014年6月6日の会見だった。
同様に、凱旋パレードを見た小学6年の男の子も、「僕も野球選手になろう」と誓いを立てている。原家同様、父親が東洋高圧大牟田(現・三井化学)に勤める真弓明信だった。

凱旋パレードを見て、野球選手を志した2人の小学生が、後に巨人と阪神の監督になり、伝統の一戦を交えることになろうとは、野球の神様も粋な計らいをしたものである。

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