大勢に見送られて夜汽車で相模へ!

貢が東海大グループ総帥の松前重義(当時・衆議院議員)と初めて会食したのは、凱旋パレードの2週間後。「新みなと」という、当時、大牟田市で一番高い料亭だった。
池の上に造られたガラス張りの部屋に案内され、下を覗くと、美しい錦鯉が群れをなして泳いでいた。石炭で隆盛を極めた時代の名残であった。

松前は、日本酒をぐいと飲み干すと、貢に訊いた。
「どうしたら、あんなに打てるチームができるのでしょうか」
松前は、先の甲子園の東海大一高対三池工戦を話題にした。東海大一高は松前が初めて作った静岡の高校で、他のどの系列高校より愛着を持っており、1対11で大敗した衝撃が尾を引いていたのである。

三池工が放った安打は22本。1949年、平安(京都)が盛岡(岩手)との試合で記録した24安打に次ぐ史上2番目の安打数であった。
貢は、従来の高校野球が上半身中心の前さばきを重視する、ちんまりとした打撃なのが不満で、球を引きつけるだけ引きつけ、腰の回転で遠くへ飛ばす打撃にコペルニクス的転回を図ったことを強調した。松前は貢の説明を聞き、微笑を浮かべた。気骨のある話しぶりに、若い頃の自分を重ねていたのである。

貢はトイレに立つふりをして中座すると、支払いを済ませ、何食わぬ顔で席に戻った。
お開きの時間になり、松前が秘書を呼び、支払いを済ませようとすると、すでに済んでいた。
「原君、困るよ」
松前が渋面を作ると、貢は笑みを浮かべ、用意していたセリフで返した。
「先生は東京じゃ、偉い方かもしれませんけど、大牟田じゃ、私のほうが有名なんですよ……」

66年12月9日、国鉄・大牟田駅のプラットホームは原家の4人、貢、カツヨ、辰徳、詠美(巨人投手・菅野智之の母)を見送る人たちで溢れていた。
夜汽車に乗り込むと、8歳の辰徳の頬に涙が伝った。一緒に白球を追った小学生が大勢、見送りに来ていた。夫人のカツヨも、3歳の詠美も目を潤ませていたが、東海大相模の監督就任が決まった貢だけは違っていた。万歳三唱に送られ、夜汽車がプラットホームを離れると、餞別の酒を呷り、叫んだ。
「さあ、都に旗を翻すぞ……」
グラブを外させて鬼の千本ノック!!

76年夏のある日、東海大相模グラウンドで、貢が野手にノックを見舞っていると、三塁のポジションにいた選手の姿が視界に入った。何を想うのか、腕組みをしながら虚空を見上げていた。高校3年生の辰徳だった。

辰徳は1年夏に、3試合連続マルチヒットで甲子園にデビュー。2年春のセンバツ大会では、決勝の高知戦で左中間最深部に特大アーチを架け、プロ野球のスカウトからも高い評価を得ていた。甲子園の通算成績は45打数18安打。4割という高打率を誇っていた。

それだけに、腕組みしている辰徳を見て、貢は驕りを感じたのである。
貢は東海大相模監督に就任後、3年目にして甲子園出場に導き、4年目に全国優勝を達成。押しも押されもせぬ「名将」として高校球界に君臨していた。

「なんだ、その態度は!」
貢は激高し、辰徳を呼び寄せると、往復ビンタを見舞った。
辰徳同様、高校1年からレギュラーだった左腕エースの村中秀人(現・東海大甲府監督)が証言している。
「ホームベース付近で始まった往復ビンタですが、バチン、バチンと顔を張られた辰徳が後ずさりしたせいで、気がつくと、2人はレフトのほうにいて、戦慄しました」

反省の色がない辰徳を、貢は右手の拳でぶっ飛ばし、倒れ込んだ辰徳に足蹴りを加える。さらには、下腹部を踏みつけ、失禁させたほどであった。

鬼の体罰は続く。
「グラブを外せ!」
貢は叫ぶと、5mの至近距離から千本ノックを見舞った。辰徳が素手で捕球し損なうと、硬球が身体にめり込んだ。(殺されるかもしれない)辰徳は恐怖に襲われたという。

貢は、こう話している。
「他の選手には、やりゃしねえ。せがれだから、やったのよ」

夏の県大会が近づき、ナインに緊張感を持たせるため、辰徳を生贄にしたのである。
そこまでしても、貢と辰徳の"父子鷹"は甲子園で優勝できなかった。2回戦で小山(栃木)に0対1で不覚を取った。

試合後、辰徳は、
「最後の打席は、なんとしても塁に出たかった」
と語り、泣きじゃくった。
辰徳が初めて人前で見せた涙だった。

報道陣がインタビュー通路から去ると、貢は辰徳に歩み寄った。
「お前もきつかっただろうが、俺も辛かったんだぞ……」
鬼の目にも涙があった。

父とともに東海大へ進んだ辰徳が、巨人からドラフト1位で指名されるのは、4年後の1980年秋だった。

(文中=敬称略)

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