国民的番組『笑点』 50年の大暗闘を暴露!!の画像
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日曜日の夕方についつい見てしまう、誰もが知っている落語家たちの競演。みんな笑顔だが、実際のところは?

「9月6日(日)放送の視聴率が19.0%(ビデオリサーチ調べ)。U18野球W杯決勝戦(18.6%)などを抑えて、この週の民放全番組のトップに立ちました。さすがですよ」

スポーツ紙記者がこう話すのは、来年で放送開始50周年を迎える『笑点』(日本テレビ系)。
「いまだに高視聴率を稼ぎ出す日曜日夕方のモンスター番組です。でも、放送開始以来、司会やメンバー交代などをめぐって大暗闘もありました」(前同)

1966年5月15日に、同番組はスタートし、メインは"大喜利"。起承転結があり、ある程度の時間が必要な落語という演芸はテレビ向きではないが、大喜利はテレビという媒体の特性に合っていたという。
演芸評論家の唐沢俊一氏が解説する。
「大喜利自体は、別に立川談志の発明でも何でもないんですが、談志が優れていたのは、一人一人の噺家をきっちりキャラクターづけしたところ。これにカラー時代にふさわしい着物の色が相まって個性が際立ち、チームとしてできあがっていく。その後、生まれる戦隊ヒーローものは『笑点』を参考にしているはずです」

三遊亭小円遊がキザキャラなら、五代目三遊亭円楽が突き抜けたキザキャラ、林家こん平がバカキャラに徹底的になりきることで、番組の人気はグングン上昇。
「放送開始から3年が経った69年には『笑点』の人気も定着してきました。しかし、番組内容は変わらず、談志好みのブラックなものでした」(テレビ誌記者)

桂歌丸は、当時のことを、『文藝春秋』2012年3月号で、こう語っている。
〈何しろ談志さんはブラックユーモアが好きで、男女差別や人種差別も含めた、きわどい回答を欲しがる。あんなの、今じゃとても放送できません。それで私と楽さんがカチンときて、このままじゃオレたちの身が危ない、番組を降りようってことになったんです〉

この言葉通り、69年3月いっぱいでメンバー全員が降板する事態に。だが、このメンバー交代があだになり、その後、視聴率は急降下。
談志の弟子で現在、フリーの落語家として活躍する快楽亭ブラックさんが話す。
「談志は『笑点』の成功は自分の力だと過信していたんですね。ところが、メンバーが変わるとガクンと視聴率が落ちた。笑点人気は、談志の企画力よりキャラクター人気だったことが証明されてしまった形です。詰め腹を切らされる形で、談志は『笑点』を降板します」

69年11月9日に談志からのバトンタッチを受けて、前田武彦が2代目司会者に就任する。歌丸、小円遊が復帰、林家木久蔵(現在は林家木久翁)がメンバーに新加入したものの、
「歌丸さんは著書『極上歌丸ばなし』の中で"前武さんじゃ、落語家のシャレが通じないんですよ。とにかくやりにくくってしょうがない……局側も気がついたんでしょうね"と書いてしまうくらいギクシャクした番組進行だったようです」(前出のテレビ誌記者)。

1970年12月20日より、3代目司会者として三波伸介が登場することに。
「在任中には40.5%(※ニールセン調べ)という歴代最高視聴率を叩き出すなど、大喜利メンバーとの息もピッタリだったんですが……」(前同)

三波は82年12月に急逝。
83年1月からは円楽が4代目の司会者を務め、現在に至る『笑点』の形は、このときに誕生したという。
「円楽は、"談志が『笑点』でアピールしていたのは化学薬品だった。これは即効性はあるけど長続きしない。私は『笑点』を漢方薬のような番組にしたい"というようなことを宣言し
ました」(前出の唐沢氏)

また、『笑点』の前身番組『金曜夜席』では、司会を務めていた円楽が、仕切りのまずさから談志に取って代わられたという過去もある。
「この宣言は水面下での談志、円楽の暗闘が表面化した瞬間でした。衝撃でしたね」(週刊誌記者)

また、次のような声も聞かれる。
「決して仲は悪くはなかった2人ですが、『笑点』に関しては、お互い、譲れないものがあったのかもしれません」(演芸関係者)

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