信任投票で反対票1票を理由に勇退

尾藤の人材活用法は、三原脩(巨人、西鉄などの監督を歴任)が説いた「遠心力野球」に似ていた。
〈選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏み外そうとする。そのとき、発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して力の極限まで発揮させる。わたしが西鉄時代に選手を掌握したやり方である〉(自伝『風雲の軌跡』)

尾藤が育てた選手は、先の東尾、島本に加え、定時制に通いながら日本一に輝いた左腕エースの東裕司(1977年春のセンバツ優勝投手)、春夏連覇を成し遂げたアンダースローの石井毅(後に西武。現・木村竹志)、優勝はできなかったが、後年、大リーグでも活躍する吉井理人など、個性派揃いであった。

2回目の甲子園で日本一になった尾藤だが、監督人生は順風満帆ではなかった。1972年春、4回目の甲子園出場を果たしたが、1回戦で倉敷工(岡山)に1対2と惜敗。2年前には全国制覇を成し遂げていただけに、優勝以外は許さないという雰囲気が醸成されていた。
夏に捲土重来を期した尾藤だったが、和歌山県大会3回戦で海南に0対5で完敗。すると、後援会は新監督擁立に動いた。

「たまたま新聞で西本幸雄さん(当時・阪急監督)が選手たちに信任投票をしたという記事を読んだんです。西本さんは桐蔭高校の前身、和歌山中学の出身ですから、親近感を持ち、尊敬していました。それで、私も信任投票をしようと思い立ったんです」
不信任票はたった1票だったが、重く受け止め、監督を辞任。一時期、知人の紹介により、ボウリング場で働くことになった。

そのときの知られざる逸話が明らかになったのは、尾藤が2011年春に膀胱移行上皮ガンで亡くなった翌日の「日刊スポーツ」。
〈ある3年生がスイングを見てほしいとやってきた。駐車場で2人だけの練習をつづけるうち「バツをつけたのは自分です」と明かされた。その夏が終わるまで2人の練習は続いた。2年後、交通事故で教え子はこの世を去った〉

3年生が信任投票でなぜバツをつけたのか、理由は定かでない。ただ、「スイングを見てほしい」と、尾藤の元にやってきたということは、バツをつけたことを悔いていたに違いない。了見が狭ければ、3年生の告白に憤ったかもしれないが、尾藤は3年生を丸ごと受け入れ、毎日、打撃指導を続けた。そこに、尾藤という人間の器の大きさを感じざるを得ない。
監督に復帰した尾藤が、星稜(石川)との延長18回の死闘を制し、公立高校として初めて甲子園の春夏連覇を成し遂げるのは、5年後の1979年だった。
(文中=敬称略)

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