一周忌に想いを…名優・高倉健が残した「不滅の名言録」の画像
一周忌に想いを…名優・高倉健が残した「不滅の名言録」の画像

邦画界を代表する名優・高倉健さん(享年83)が亡くなったのは、昨年11月10日。
映画で演じる役そのままに、私生活でも寡黙で誠実な人柄だったという高倉健さん。みずからの“美学”を貫いた生き様に、胸を打たれてきた読者諸氏も多いだろう。そこで一周忌を迎える今秋、健さんの“名言録”をもう一度、噛み締めよう。
まず、『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)。劇中、旅先で知り合った娘(桃井かおり)と「したい」一心の青年(武田鉄矢)に、健さんは、
「オナゴちゅうもんは、弱いもんなんじゃ。咲いた花のごと、脆い、壊れやすいもんなんじゃ。男が守ってやらんにゃいけん。大事にしてやらんにゃいけん」
と、女は守るべきものだと感情もあらわに叱責し、「オマエのような男のこと、“草野球のキャッチャー”ちゅうんじゃ。分かるか?」と、謎解きを投げかけ、「ミットもない……ちゅうこったい」。オヤジギャグも、健さんの口を通せば粋なジョークに変わるから不思議だ。
遺作となった映画『あなたへ』(2012年)では、綾瀬はるかと共演。ロケ地の富山刑務所を表敬訪問したことも話題になった。受刑者350人を前に、
「1日も早く、あなたにとって大切な人のところへ、帰ってあげてください。心から祈っています」
盛大な拍手が沸き起こり、健さんは思わずもらい泣き。加えて、その場では、「自分は、日本の俳優では一番多く、皆さんのような“ユニフォーム”を着た俳優だと思います」と語り、ドッと沸かせたのも語り草だ。そのユニフォーム姿を披露した作品が『網走番外地』(65年)。舞台は網走刑務所。母が死期を宣告され、早く娑婆に出たい健さん。
脱獄するも同行者が谷底に落ち、大ケガ。背負って雪山を下る途中、保護司の男に見つかるが、「あっしのことなら、好きなように料理してください。その代わり、こいつを助けてほしいんですよ。早く手当てしてやんねえと、お釈迦になっちまうんです!」と言うが、その理由は、「聞いちまったんです。この野郎のうわ言を。“オフクロ、オフクロ……”って」と、いざという際に自分を犠牲にできる男の凄味を見せるのだった。
同じく65年の『昭和残俠伝』も主演。戦地に赴き5年が経ち、復員。愛する女性・綾(三田佳子)がいたが、戦中、他の男と結婚してしまった。5年ぶりに再会するシーンで、
「綾さん。俺は戦地で、もう一度、あんたの顔を見るまで死んでたまるか、って思い続けてきた。それが、こうやって会えたんだ。もう十分、幸せですよ」
「清さん……半年早く帰ってきてくれれば」
「綾さん。言っていいこと悪いことがありますぜ」
不条理な運命を、グッと耐えて受け入れたのだ。
『遥かなる山の呼び声』(80年)もなかなかだ。息子(吉岡秀隆)と二人で暮らす未亡人(倍賞千恵子)は酪農家。そこへ訪れ、「物置でいいから泊めてくれ」と言い、無償で働く健さん。某日、未亡人が遭遇したトラブルを仲裁するも、相手方に喧嘩を売られる。受けて立ち、見事に勝利。だが、カッコはつけたくない。息子役の吉岡には「お母さんには言うな」と口止めしていたが、吉岡は「言っちゃった」というのだ。「言っちゃった? 言うなと言っただろう。約束守らない奴は、男じゃないぞ」
子ども相手でも、“男と男”という対等な関係だ。広末涼子と共演した『鉄道員(ぽっぽや)』(99年)。娘と妻を亡くし、それでも駅に立つ駅長を演じた。
「鉄道員は、どんなときだって、拳固の代わりに旗を振り、涙の代わりに笛を吹き、大声でわめく代わりに歓呼の裏声をしぼり出さなければならないのだった。鉄道員の苦労とは、そういうものだった」
男の人生は、我慢の連続。ちなみに、健さんの訃報をマスコミへ伝えるファックスには彼の“座右の銘”、「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」(天台宗・酒井雄哉大阿闍梨)による言葉も添えられていた。人生は精進し、我慢するもので、それで死んでも悔いはない――という意のものだ。健さんの言葉は、いつまでも私たちの中で光り輝くことだろう。

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