秀吉は湯治、家康は粗食…戦国武将に学ぶ「無敵の健康術」の画像
秀吉は湯治、家康は粗食…戦国武将に学ぶ「無敵の健康術」の画像
群雄が割拠し、絶え間なく戦乱が繰り広げられた時代。“天下”を狙う男たちは皆、頑強な体の維持に努めた!!

 1467年の応仁の乱以降、徳川家康が江戸幕府(1603年)を開くまで、130年以上も続いた戦国の世。下剋上を合言葉に、血で血を洗う合戦に明け暮れた戦国武将にとって、最大の武器は“長命であること”だった――。

「鉄砲全盛の時代以前、機動力と攻撃力に優れた最強部隊は騎馬隊でした。風林火山の旗印の下、最強騎馬軍団を率いた武田信玄は、天下取りに向けて上洛の途上、陣中で病没します。享年53。死因は肺結核だったと推測されますが、彼は天下を指呼の間に収めながら、病魔に屈してしまったわけです」(戦国武将に詳しいライターの小川新太郎氏)

 敵に勝つ前に、まず病魔に勝つのが大前提。一説に、男女の平均寿命は40歳前後ともいわれる戦国乱世。信玄の53という享年は決して短命とは言えないが、我々が知る戦国武将は、戦死者を除くと70歳を超えて活躍した人物も多く、総じて長生きである。「戦国武将の目的は、領土を拡大し、丈夫な子どもを作ることでした。そのためには頑強な体が必要。そのため、周囲に“健康アドバイザー的な存在”を置き、さまざまな健康法を試行錯誤していたのでしょう」(産業医の下村洋一氏)

 実は、史料に残された戦国武将たちの養生訓の中には、現代に通用するものが数多く見受けられる。そこで今回は、明日から実践できる乱世を生き抜いた男たちの“無敵の健康術”を一挙紹介してみたい。

 まずは“戦国覇王”こと織田信長(47=享年、以下同)から。「信長は家臣だった明智光秀の裏切りに遭い、戦死しています。そのため短命に終わりましたが、深刻な持病の記録はなく、健康体だったと思われます。本能寺で果てなければ、長生きしたのでは」(小川氏)そんな信長のモットーは、<食べたいときに食べたいだけ食べる>だ。「これは胃腸に負担をかけない最善の方法。食事の時間が来たから、なんとなく食べる……という食べ方ではなく、本来は、空腹感を感じたら食べるべきなんです」(漢方医の平地治美氏)

<運動を怠らない>ことも信長の生活習慣。彼は“うつけ”と呼ばれた幼少の頃より、腰にひょうたんの水筒をぶら下げて、川で水泳、野原で相撲に興じていたという。この習慣は成人してからも変わらず、水泳や乗馬で汗を流していたようだ。運動習慣が健康に良いことは言うまでもない。ただ、その反動か、信長は京風の薄味よりも、味付けの濃い料理を好んだという。「運動をする人は減塩したら脱水して危険なので、これも“体の声”に従った結果」(平地氏)「薄味は塩分が少ないわけですから、血圧が低い状態。こうなると思考もままらないため、濃い味を好んだのは合理的」(下村氏)

 その人に合った食習慣があるのだ。続いて、信長の遺志を継ぎ、天下統一を果たした太閤豊臣秀吉(62)。「秀吉は、若い頃に織田家家中で懸命に雑巾掛けをして頭角を現した人物。それこそ、晩年になるまで健康に留意できなかったはずです。天下人となってからも、蕩尽を好んだといわれていますので、決して健康的な生活をしていたようには思えません」(小川氏)

 しかし、子宝に恵まれず“世継ぎ”に悩んだ秀吉は改心。晩年は<温泉湯治>を好み、<お灸>を日課としたとか。「温泉はリハビリとして有効なもの。最大の特徴は血行を促進することで、怪我の回復を促すことです。日本には昔から湯治場があったため、武士たちは、その効果を実感していたはずです」(下村氏)

 もうひとつ、秀吉が腐心したのが<番医(主治医)を抱える>ことだ。「秀吉には、当時、天下の名医として知られた竹田定加(じょうか)、吉田浄慶(じょうけい)ら、10名近くの主治医がいたことが分かっています」(小川氏)具合が悪くなると、彼らの診立てを順々に聞いて回り、最良の治療法を採用していたという。いわゆる<セカンドオピニオン>を実践していたわけだ。

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