作家・大沢在昌「一番怖いのは、勝手に自分の限界を決めてしまうこと」~のたうちまわる人間力の画像
作家・大沢在昌「一番怖いのは、勝手に自分の限界を決めてしまうこと」~のたうちまわる人間力の画像

 犯人を決めないで、小説を書き出すことなんてしょっちゅうです。だから、連載中に、読者は絶対に犯人がわからないんですよ。俺も知らないんだから(笑)。

 初めに、雪だるまの核みたいなアイディアを出して、あとから一生懸命、その核を転がしていく感じで作っていくことが多いですね。最初に全部カチッと決めちゃうと、設計図をなぞっていくだけのようで、書く気がなくなっちゃうんですよ。ただその分、ドツボにはまると、もう大変。“次号乞うご期待”なんて終わって、次の展開がまったく決まってない。締め切りは刻一刻と近づいてくるわけで、のたうちまわって、次のアイディアを絞り出すしかない。確かに辛いけど、極限まで自分を追い込んで、悩んで書くから、おもしろくなるはずだと信じている。鼻歌まじりでヒョイヒョイと書いたのが、読んでおもしろいわけない。

 ベテラン作家にもなれば、適当に書いていると思っている人もいるかもしれないけど、逆に今までの自分の作品とパターンが同じにならないようにしなければならないわけで、すごく苦しいと思いますよ。中には、同じパターンで書いちゃう人もいるかもしれない。でも、それを何回も繰り返していたら、読者は離れていくし、俺の場合は、自分が飽きちゃう。だから、それは絶対にやらないと決めています。いまだに、恐いんですよ。“俺はこれで安泰だ”って思ったら、読者に愛想を尽かされて、売れなかった時代に戻ってしまうんじゃないかって。

 23歳でデビューしてから『新宿鮫』が出るまでの11年間は、まったく売れませんでしたからね。当時は、書店に行って、自分の本を探しても見つからないんですよ。“なんで俺の本がないんだ”って調べると、赤川次郎さんの新刊を目立たせるための台にされていたり(笑)。まあ、29作書いて、重版した作品が0。“永久版作家”ってあだ名をつけられていましたから、当然ですよ。当時は、双葉社育ちっていう“差別語”があって、俺と船戸与一さんは双葉社育ちだって陰口を言われていました(笑)。今は、湊かなえさんだから、“差別語”どころかエリートですけどね。

 あの時代に逆戻りするかもしれないという恐怖。それを何で解消するのかって聞かれたら、やっぱり、いい作品を書くしかないんです。小説なんて、“買ってくれ”と頼んだところで買ってくれる人の数はたかが知れている。書店で、今ならハグ付きますとかないし、そんなことやったら張り倒されちゃいますから(笑)。講演会に呼ばれたときは、ここぞとばかりに、創作の苦労話で同情を誘って“だから、買ってね”とお願いしますけど(笑)。

 落ちる恐怖もあるけど、作家をやっていて、一番恐いのは、勝手に自分の限界を決めてしまっているかもしれないということ。自分が、文学賞の選考委員になったときのことなんですが、“この人はなぜここで、作品が止まってしまっているんだろう、この先のドアを開けば、もっとおもしろいものが作れるのに”って思うことがあるんです。それは編集者を通じて、伝えるんですけど、当の本人には、その先にドアがあることが見えていない。彼が今いる部屋で終わりって思い込んでいたら、彼の作品はそれ以上にはならない。世に言う才能ですよね。

 これは、自分自身にもあてはまることで、まだドアがあるのに、気づいていない可能性がある。そのドアを開けられるものなら開けたいけど、100作以上書いてきて、さすがに見つけるのが、苦しい。でも、これ以上、ドアはないと思ってしまったら、それまで。もう適当でいいやって書いていたら、新たなドアが開けないんだから、やっぱり、のたうちまわるしかないんです。

 次号から週刊大衆で始まる連載だって、新しいドアが開けるよう、なんとかしなきゃいけない。今のところ、タクシー運転手の主人公が、携帯電話の落とし物を拾って、それが原因で、トラブルに巻き込まれていってしまうというくらいで、頭の中でまとまっているのは3割ほど。俺だってどうなっていくかわからないんだから、読者には、最後までドキドキを味わってもらえると思います。

撮影/弦巻 勝

大沢在昌 おおさわ・ありまさ

1956年名古屋市生まれ。76年に慶応大学法学部を中退後、執筆活動に入る。79年、『感傷の街角』で小説推理新人賞を受賞し、作家デビュー。91年、『新宿鮫』が大ベストセラーになり、同作で吉川英冶文学新人賞ほかを受賞し、一躍人気作家に。94年の『無間人形 新宿鮫Ⅳ』で直木賞を受賞。04年には『パンドラ・アイランド』で柴田錬三郎賞を受賞するほか数々の文学賞を受賞するなど、今なお人気作家として活躍中。

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