明智光秀 戦国の世をさらに混沌とさせた謀反人の画像
明智光秀 戦国の世をさらに混沌とさせた謀反人の画像

 裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・明智光秀1528-1582】

 現在の岐阜県内で生まれたとされるが、出生や青年期の詳細は分かっていない。所属を転々としながらも15代将軍足利義昭の家臣になったが、信長に取り立てられて、織田家入りする。

 主君だった織田信長を、1582年に京都・本能寺で討ち取った明智光秀。当時から現在に至るまで、その動機は分かっていない。

 しかし、〈プライドを傷つけられた説〉〈黒幕説〉〈天下狙いの野望説〉など、当時から多くの推測が乱立しているように、建前の大義名分すら掲げることもなく、他勢力との連携や謀反後の青写真も皆無。そのため、“敵討ち”を掲げて駆けつけた秀吉陣営には、他の織田家重臣が参加した一方で、光秀への加担者はいなかった。秀吉軍4万、光秀軍1万6000。戦いの趨勢は即座に決まり、光秀は逃亡。その姿を土民に見つかり、竹槍で刺されて絶命した。その後、首は1週間近くも京都でさらされる。このとき、55歳。本能寺の変からわずか13日間という刹那の幕切れだった。

 光秀の家族も苦しみは同様。女婿・明智秀満は秀吉軍に敗れ、自害。光秀の妻子を殺害したうえでの決断だった。さらに、別な場所にいた長男・光慶も、10代という若さで自害に追い込まれた。光慶以外の男児の中には僧籍に入って生き延びた者もいるとされるが、そもそも、光秀の子どもの数すら判明しておらず、一家離散としか言いようがない惨状に陥った。

 三女・珠(ガラシャ)は、後に肥後54万石を得る細川忠興に嫁いでおり、明智家で唯一の平穏な余生を過ごすと思われたが、1600年に、自分の屋敷に火を放ったうえで自害して果てることとなる。

 影響は家族だけでなく、時代をも一変させた。天下人目前だった信長の死によって、織田家は空中分解。以後、天下統一事業が中断し、戦国の世は再び混沌の中に陥っていくからだ。

 光秀の裏切りは、主君の命と自らの命だけでなく、呪われたかのように、さまざまなものを闇に葬り去ったのである。

本日の新着記事を読む