宇喜多直家 謀略の限りを尽くした裏切りの申し子の画像
宇喜多直家 謀略の限りを尽くした裏切りの申し子の画像

 裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・宇喜多直家1529-1582】

 備前(岡山県東南部)の守護大名・赤松氏の下で守護大名を務めていた浦上氏の家臣宇喜多家に生まれる。直家が幼少時に、祖父・能家が同僚に殺され、父・興家と放浪生活を送る。

 突然の放浪生活中に父が死に、母も別な男と結婚し、孤立無援となった幼少時代が、人間の根幹を歪ませたのか。そう思わざるをえないほどに、宇喜多直家の人生は屈折している。

 直家は、つてを頼って浦上家に入ると、祖父を殺した島村盛実を殺すべく、主君・浦上宗景に相談。すると、直家の舅を殺すことを条件に、盛実殺害を許可されたという。普通では受け入れられないが、直家にとっては、嫁の父を殺すことも躊躇することではない。すぐに、舅を酒席に招いて暗殺。続けて、盛実を殺してしまうのである。

 その後も、宗景の協力を得ながら、暗殺に暗殺を重ねる直家は、ある暗殺事件で揉めた相手がいた。彼に、自らの長女を嫁がせて騒ぎを収めたのだが、その長女の旦那すらも殺害するのだ。

 家族を裏切り続け、嫁と長女を失意の自害に追い込んだ男の策謀は止まらない。今度は、これまでの暗殺の協力者、宗景をも裏切り、1596年に主殺しを敢行する。これは失敗し、宗景に降伏。なんとか命を許してもらうが、その恩義もいざ知らず、5年後に再び謀反。主君を追放し、岡山城を拠点とする戦国大名に下剋上を果たすのだ。その後も、策略で領土拡大を続けるが、1582年、50代半ばで病死する。

 宇喜多家は、当時10歳の子・秀家が家督を相続。秀家は豊臣秀吉に可愛がられ、57万石の太守として、政権重鎮として、重きをなした。その秀家は、直家とは対照的で、関ヶ原では、亡き秀吉への恩義から西軍として奮戦。戦後は、八丈島に配流される。その後、大名復帰の打診もあったのだが、豊臣家への遠慮から、これを断っている。

 裏切りから一転、義理堅くなった宇喜多家は、困窮しながらも八丈島で暮らし、現在まで続いている。

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