かつてCS日テレで『笑点ジュニア』なる番組が放送されていた(07~11年)が、ここに王楽は出演していた。ちなみに同番組で司会を務めたのが春風亭昇太。コーナーを任されていたのが林家たい平だった。その昇太は“独身キャラ”で知られるが、決してモテないわけではないという。

 20年ほど前に、某美人女優と交際していたという情報を本誌は聞きつけた。「当時の兄(あに)さんには“オレの彼女は凄い美人だから、おまえが見たら目が潰れちゃうよ”なんてノロケられたものですが、知らないうちに破局してました。兄さんがいまだに独身なのは、その人を超える女性と出会ってないからかもしれません」(後輩の中堅落語家) 意外とロマンチスト? 一方、たい平は座布団の上を飛び回るのがお約束となっているが、実際は、「楽屋では他の出演者に気を遣い、着物を畳むときもくつろぐときも、すべて畳一枚の中で収まるようにする几帳面な方なんです」(前出の若手落語家) また、テレビでは恐妻家として知られているものの、「実生活でも、やっぱり恐妻家です(笑)」(前同)

 盟友・立川談志師匠に誘われ、67年から69年にかけて『笑点』の2代目・座布団運びを務めた毒蝮三太夫は、こう振り返る。「そもそも毒蝮という芸名は、談志と先代の円楽さんにつけられたんだ。当時、オレは本名で『ウルトラマン』に出ていたんだけど、科学特捜隊員が座布団運んでるのは変じゃないかと、周りにさんざん言われたこともあり、じゃあ、別な名前をつけようと。談志が“蝮(まむし)はどうだ”と言うと、円楽さんは“蝮は蝮でも毒蝮だね”。最初はイヤで仕方がなかったけど、番組で襲名披露までやる騒ぎになっちゃってね。紀伊國屋書店社長の田辺茂一さんが音頭を取り、小林桂樹さんや山口洋子さん、野末陳平さんたちが会を盛り上げてくれた。今では、いい思い出だね」 さらに続けて、「『笑点』を作ったのは談志なんです。出演者を選び、それぞれの役割を考え、企画を考える名プロデューサーだったね、彼は。ただ、談志の指向する笑いはブラックなユーモアやアイロニー、諧謔(かいぎゃく)味のある笑いだった。大喜利の答えが客に受けると途端に機嫌が悪くなるんだよ(笑)。で、衆院選に出馬することが決まったこともあって、談志は69年に『笑点』の司会を降りるんです。自分も一緒に辞めました」

 談志師匠の望んだ方向ではないにせよ、その後も『笑点』の人気は高値安定を続け、現在に至っている。「今は地上波で15分も20分も一人の落語家の高座を中継するのは不可能に近い。ブツ切りではあっても『笑点』は落語のエッセンスを伝える番組であってほしいよね」(前出の吉川氏) 笑う門には福来たる。お後がよろしいようで……。

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