武騎手の海外志向は、野茂氏といっしょで、実にシンプルだったという。JRA関係者が話す。

「月刊誌『優駿』のインタビューで話していますが、米国には巧いジョッキーが多く、いっしょに乗ってみたいという思いからでした。その彼らから影響を受けたのはかっこよさ。かっこよく乗ることにとても気をつけているとも」

 当時はまだ、『かっこよく勝つ』なんて言えるような風潮ではなかった。

「お父さんの武邦彦さんって大レースで勝つとニヤっとするんです。たぶん『よっしゃ。うまく乗れた』と自分に納得がいったからだと思います。岡部幸雄さんだって控えめでした。あのシンボリルドルフとの3冠レースで1冠ごとに指をたてたぐらい。田原成貴さんぐらいから『騎手はアーティスト』という意思表示が始まった気がします」(栗東のTM)

 1994年には仏ロンシャン競馬場でスキーパラダイスに乗ってJRA所属の騎手として初の海外G1勝利をするなど、世界を飛び回りながら数々の記録を塗り替えてきた。2003年、JRA史上初の年間200勝をマークし、翌年には自身の204勝を更新する211勝の活躍をすると同時に、平成の天馬・ディープインパクトと出会う。民放の競馬担当ディレクターが語る。

「この頃の彼は、『ファンに感動を味わってもらうことが騎手の醍醐味』と話すほど、エンターテインメントとしての競馬について真剣に考え、行動してましたね。その一環が『武豊TV!』でしょ。あれはサッカー元日本代表の中田英寿氏がキラーパスの瞬間の状況や感覚を解説したら、サッカーファンなら誰でも聞きたくなるよねっていう話の延長戦で始まったようなものです。常に競馬ファン目線でしたね」

 2005年は無敗の3冠馬ディープとのコンビで競馬人気を牽引し、2007年には岡部幸雄元騎手が持っていたJRA歴代の最多勝記録を抜き、2944勝を挙げた。ただ、この年の4月に香港で起きた事件を1つのきっかけに、成績が右肩下がりになっていく。スポーツ紙デスクが解説する。

「今では有名なエピソードですが、有力馬主とG1レースの騎乗内容を巡り絶縁関係となってしまった。その後、2008年夏に落馬し約1カ月休養するも、女傑ウォッカとダート王ヴァーミリアンでG1連勝記録は伸ばしていた」

 だが、2010年3月には落馬により半年以上とも1年とも言われる大けがを負って成績が急降下した。前出のデスクが続ける。

「無理して4カ月で復帰したことがスランプの遠因とも言われ、この年から69勝、64勝、56勝と不振を極めた。2010年10月の凱旋門賞、同年12月の阪神ジュベナイルフィリーズ、2011年5月の春の天皇賞と、社台系グループが所有する有力馬で惨敗し、一気に有力馬の依頼が途絶えてしまうんです」

 G1級の有力馬がスマートファルコンだけという中、2012年に佐藤哲三元騎手が落馬し、キズナの代役が回って来た。

「佐藤騎手のたっての希望で実現しました。父ディープ譲りの豪脚と気性の難しさを備えていたし、オーナーサイドとも信頼関係が厚かったですからね」(栗東のTM)

 2013年の日本ダービーは、そのキズナで通算5回目のダービージョッキーに輝く。同一騎手による初の父仔制覇に大観衆も沸いた。その光景は、スペシャルウィーク(1998年)との初制覇とダブって映る。約17万人の観衆からの「ユタカ」コールを思い出させるような熱狂ぶりだった。武豊ファンにとってはアドマイヤベガ(1999年)、タニノギムレット(2002年)、どれをとってもファンタスティックで、かっこいい勝利の瞬間だったに違いない。2015年もデビューから続く連続重賞勝利記録を29年に伸ばし、2010年の落馬以来、実に6年ぶりに100勝を挙げた天才・武豊。2016年もまた、円熟味ある華麗な手綱さばきでターフを彩る。

<別冊週刊大衆『運命をつかみ取る「勝負師」たちの「勝つ生き方」』より>

本日の新着記事を読む

  1. 1
  2. 2