『真田丸』の予備知識!! 3分でわかる「真田信繁(幸村)」ってざっくりどんな人?の画像
『真田丸』の予備知識!! 3分でわかる「真田信繁(幸村)」ってざっくりどんな人?の画像

 いまや老若男女に人気のNHK大河ドラマ。今年は、戦国時代最後の名将として名高い、「真田信繁(幸村)」が主人公の『真田丸』の放送がスタートしました。ご存知の通り、堺雅人主演、三谷幸喜脚本で放送前から大きな話題を呼び、第2回目の視聴率は20%超え。はやくから人気作としての地位を確立しそうな勢いです。

 とはいえ、この「真田幸村」という人物。歴史好きには人気の武将ですが、それ以外だと「名前は知ってるけど……」程度の印象ではないでしょうか。ここ数年、テレビゲームの影響で(真田幸村がイケメンな武将として活躍)、一部のゲーマー女子や腐女子に幸村は大人気となっていたものの、普通の人にとってはまだまだマイナーな存在。では、どういった人物だったのでしょうか? ここで簡単にまとめみたいと思います。

 幸村が生まれたのは1567年、真田昌幸の次男として甲府で生を受けました。幼名は真田弁丸。ちなみに「真田幸村」の名前が有名ですが、これは江戸時代に書かれた書物による通称で、正式には「真田信繁」。今回の大河ドラマでもこちらの名前が使われています。没年は1615年ですから、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したことになります。

 幸村の生涯は紆余曲折そのものでした。もともと真田家は武田家の家臣でしたが、武田が織田信長に滅ぼされた後は織田家に、信長が本能寺の変で倒れると上杉家に、情勢が変わると北条家に臣従することに……。幸村は上杉家の人質として過ごす時代もありましたが、その後、豊臣家に服属して真田家は独立大名となりました。

 1600年の関ヶ原の合戦では父・昌幸とともに豊臣側に。兄・信之は徳川側についたため、一族が分かれて戦うことになってしまいます。幸村は、数々の功績を残す働きを見せましたが、結果は豊臣側の敗戦。本来は自害もやむなしの状況……しかし徳川側についていた兄・信之の働きかけのおかげで、紀伊の九度山に配流されることになります。

 その後、徳川家と豊臣家の対立が激化。九度山を脱出して大阪城へ入り、1614年大阪冬の陣に参加します。この戦いでは大阪城に攻めかかる徳川軍に対し、大阪城の弱点である三の丸南側に「真田丸」と呼ばれる出城をつくり、敵を次々と撃退。その名を知らしめました。

 さらに、翌年の大阪夏の陣では伊達政宗を撃破するという功績を挙げました。味方武将の戦死が相次ぐなか、徳川家康の本陣にまでも肉薄しますが、最後は反対に追い詰められ、四天王寺近くの安井神社(現在の大阪府天王寺区)の境内で討ちとられるという、非業の死を遂げます。享年は49歳でした。

 このように、数奇な運命を辿った真田幸村ですが、なぜ歴史ファンに人気があるのでしょうか? それは、その活躍が記された史実をもとに、軍記や小説、寓話などが多く制作されたからです。猿飛佐助や霧隠才蔵など、10人の忍びを従えて家康に挑む『真田十勇士』は、歴女ならずともご存じではないでしょうか。

 大河ドラマにも抜擢され、今年は幸村フィーバーが起こるのは必至。ここで紹介した事前知識で、もっとドラマが楽しめるかもしれませんよ!

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