NHK大河『真田丸』がもっと面白くなるウラネタ大公開 「武将のしぐさにもワケがあった!!」の画像
NHK大河『真田丸』がもっと面白くなるウラネタ大公開 「武将のしぐさにもワケがあった!!」の画像

 六文銭の旗が躍る勇壮なオープニングが週末最大の楽しみ! という人をさらにのめり込ませる“ツウの見方”を大公開!

 関東での平均視聴率が20%を超えるなど、好発進したNHK大河『真田丸』は、地元・長野では30%超えを連発する熱狂ぶりだ。堺雅人や長澤まさみといった豪華出演陣はもちろんだが、脚本を手がけた三谷幸喜氏がドラマに散りばめた多くの工夫が、視聴者を釘づけにしているのである。今回は、本誌が掴んだ、その魅力のヒミツと裏側を大公開しよう!

 本作の主人公、真田幸村(本名は信繁)は、織田信長や伊達政宗と並ぶ人気を誇る戦国武将だが、「真田家は、戦国大名になりきれない無数の小勢力『国衆(くにしゅう)』の一つでしかありませんでした。しかも、その家の次男という、簡単には飛躍できない立場だったんです」(歴史誌編集者)

 その真田家は、発祥の地である長野県上田市や群馬県の一部を領有していたが、「16世紀中頃に領地を失い、流浪の日々を過ごします。幸村の祖父・幸隆の代に武田信玄の力を借りて、旧領の奪還に成功しています」(前同) 以来、真田家は信玄という最強武将に身を寄せて生き残りを図る。幸村の父・昌幸(草刈正雄)は、武田家に人質として預けられるが、その才能が認められ、側近に。しかも、公私にわたり信玄の近くにいることで権謀術数が磨かれていく。「ドラマでも、昌幸が“武田は絶対に滅びない”と大勢の前で宣言したかと思えば、その直後、幸村や信幸(大泉洋)にだけは“武田は滅びるぞ”と前言を翻したり、上杉家への書状に策を施して、同じ国衆から“食えないヤツ”だと怪しまれるシーンがあります。そうした場面が、昌幸の一筋縄ではいかない性格を表しているんです」(同)

 ドラマ中で武田勝頼(平岳大)が「父上が存命であれば……」と嘆くように、戦国時代、信玄は最強の武将として名が轟き渡っていた。あの織田信長ですら、ご機嫌伺いを欠かさなかったほど彼は恐れられた。その実力から、信玄はどの武将からも攻められず、当時の武田家の本拠・躑躅ヶ崎(つつじがさき)館は、その名の通り城としての体裁はなく、大きめの屋敷というもの。信玄の“人は城、人は石垣”との言葉が残るように、何よりも人が第一と考えた。しかし、病には勝てず、1573年に死没する。「自らと勝頼の実力差を知っていた信玄は、死の間際、“3年は死を隠せ”と言い残しました。自分が死ねば、他家が攻め入って来ると、知っていたんです」(歴史研究家)

 信玄が亡くなり、武田家が瓦解すると、周囲の大勢力はその領土簒奪を画策。そこで真田家は、踏み潰されぬよう、他家に庇護を求める必要に迫られるわけだ。ちなみに、『真田丸』の中では、その勢力図がCGの地図として何度か登場するが、実はあれは、『信長の野望』シリーズでお馴染みの人気ゲームメーカーが、NHKと協力して作成したもの。あの画面に既視感を覚えた人もいるかもしれない。

 また、今回のドラマでは、その他にも最新の映像技術が活用されており、オープニングでも登場する岩櫃(いわびつ)城は、現在の城跡にCGを重ね合わせたもの。他に、矢が飛び交う合戦風景なども、そうした技術が用いられ、まるで本物かのように画面の中で躍動している。話は戻るが、真田家を囲む大勢力は、それぞれの利害関係を持っている。そこで重要なのが「情報」。ドラマでは、幸村が敵国近辺にまで偵察に向かっていたが、「小さな真田家といえど、さすがにそれはフィクション。ただし、武将たちは諜報活動や謀略をさせるための“スパイ集団”を抱えていて、彼らを近隣諸国に放っていたんです」(前同)

 後に、それが忍者と呼ばれるのだが、さすがに消えたり、空を飛べたりはできなかったそうだ。「彼らは商人や旅人に身を扮して、諸国を巡り歩き、噂を集めたり他国のスパイと情報交換していました。また、噂がなかったとしても、大名が戦の準備を進めれば、兵糧(ひょうろう)などを集めるために、その地域の米などの物価が上がるので、そうした部分からも動向を探っていたんです」(同) ドラマでは、『真田十勇士』の一人である猿飛佐助を思い起こさせる佐助(藤井隆)がその役割を担うが、「それぞれが得意の秘術を持つ真田十勇士ですが、実は、これは後世に作られた架空の存在。でも、三谷さんはそれを分かったうえで、あえて物語に落とし込んでいるんでしょう」(同)

 架空の人物といえば、真田家の重臣、高梨内記の娘で幸村の幼馴染のきり(長澤まさみ)も、その一人。「高梨内記に娘がいたのは事実ですが、幸村と生涯にわたって関係が近かったとの史実はありません。『真田丸』の中でもハッキリとさせていないように、そもそも幸村には、いつ生まれたかに諸説あるわけですから、幼少期や青年期については分かっていないことが多いんです」(郷土史家)

  1. 1
  2. 2