タモリに阿部寛、30歳過ぎでブレイクした遅咲きタレントたちの画像
タモリに阿部寛、30歳過ぎでブレイクした遅咲きタレントたちの画像

 昨年11月に93歳で逝去した水木しげるのお別れの会が青山葬儀場で営まれ。ドラマ『ゲゲゲの女房』(NHK)で水木夫妻を演じた松下奈緒(31)、向井理(34)をはじめ、関係者や著名人、一般のファンら8000人が参列。故人との別れを惜しんだ。水木といえば、『ゲゲゲの女房』でも描かれているように、たいへんな遅咲きの漫画家として知られている。漫画家としてのデビューは30代半ばを過ぎてから。長い不遇の時代を経て、メジャー雑誌の舞台に登場したときにはすでに40歳を過ぎていた。その夫を影で支えていたのが夫人の武良布江。水木と見合結婚をしたときの年齢が29歳と、当時としてはかなりの晩婚だった。水木夫妻はまさに遅咲きの二人で、そんな夫婦のサクセスストーリーが視聴者の共感を呼んだ。芸能の世界でも、中途入社的に30歳を過ぎて芸能界に入りながらも一分野を切り開いてブレイクし、確固とした地位を築いた芸能人も多い。

 タモリ(70)がテレビに初出演をしたのは1975年、30歳のとき。実は坂上忍(48)よりも芸歴が浅いのだ。早稲田大学を学費滞納で除籍処分となり、故郷の博多に戻って保険会社の外交員、旅行会社社員、ボウリング場の支配人を経て喫茶店のマスターをしていた頃、ジャズピアニストの山下洋輔(74)に才能を見出され、それを知った漫画家の赤塚不二夫(72歳没)らによって東京に呼び寄せられて上京。タモリをブレイクさせようという赤塚らのプロジェクトによって世に出た。その後の活躍は誰もが知るところだが、タモリのデビュー直前に知人の紹介で芸を見せられ「九州に帰ったほうがいいんじゃないか」とダメ出しし、先輩の前で芸をやるならサングラスをはずせ、と怒ったのが堺正章(69)。後にタモリは堺の所属事務所だった田辺エージェンシーに後輩として入ってくるのだが、あっというまに人気は逆転。堺は途中から「タモリさん」と呼ぶようになってしまったというのは、さすが売れたモン勝ちの芸能界。そんな堺の芸能界デビューは5歳の時で、タモリの対極を行っている。

 タモリに見い出されたような形でお茶の間に知られるようになったのが阿部寛(51)だ。雑誌『メンズノンノ』のカリスマモデルとして活躍していた20代前半、『笑っていいとも』(フジテレビ系列・終了)の「いい男さんいらっしゃい」というコーナーに出演。タモリやコーナー司会の片岡鶴太郎(61)に「アベちゃん」というニックネームをつけられ、その濃い容姿をイジられまくったのが世間一般に知られるようになったきっかけだ。その後、モデルから俳優に転向するも、それからが阿部にとっての長い不遇の時代となる。その間、パチンコで生計を立てるなどかなり困窮していたようで、「消えた有名人」として取材が来てしまうこともあった。俳優としての評価を受け始めたのが30歳の頃。マイナー役者から主役クラスのメジャー俳優へと出世したのが2000年の『TRICK』(テレビ朝日系)だったが、このとき既に30代の半ばを過ぎていた。

 役者デビュー自体が30歳手前と遅かったのが阿部と同じモデル出身の沢村一樹(48)。雑誌主催のモデルコンテストで優勝しそのままメジャーなモデルとして活躍した阿部とは違い、沢村は折込広告のチラシモデルも経験している苦労人だ。しかし俳優としてデビューしてからのキャリアは順調で、『浅見光彦シリーズ』(TBSテレビ系列)で当たってからは、俳優業以外にも端正なルックスに似合わぬ下ネタ好きのとぼけたキャラを生かし、バラエティタレントとしても成功している。

 人気商売で売れた者勝ちの芸能界とはいえ、その基本は上下関係が支配する年功序列の世界。青年期を過ぎてからそんな世界に入りながらも、芸人、役者として確固とした地位を築き上げた人物に森繁久彌(96歳没)がいる。森繁を成功に導いたのは、何でもこなせる並外れた器用さ、そして人あしらいの上手さだった。同様の力で頭角をあらわしたのがタモリで、実際にタモリは森繁の多才さと人あしらいの巧みさに舌を巻いたと語っている。遅咲きデビュー組が生き残るためのヒントは森繁の生き方の中にあるのかもしれない。

本日の新着記事を読む