角栄氏と同じく越後出身の戦国武将・上杉謙信は敵に塩を送った逸話が知られるが、角栄氏の場合は敵に衣類を送ったという。ロッキード事件を批判して作家の故・野坂昭如氏が角栄氏と同じ選挙区から衆院選に立候補した際のこと。時は真冬。雪に慣れない野坂氏が苦戦しているのを見て、角栄氏は秘書に「風邪を引くから、靴下、長靴、手袋を差し入れてやれ」と命じたというのだ。政敵に対してでさえこうなのだから、あとは推して知るべし。

 前出の浅川氏が初めて角栄氏に取材に行ったときのこと。帰り際に角栄氏は、「ところで、君は何年生まれだ?」と聞いた。浅川氏は、「昭和17年です」と答える。すると角栄氏は、「5歳で亡くなったワシの長男と同級生だな。大きくなっていたら、君のようなジャーナリストになっていたかもしれん。これも何かの縁だ。いつでも気楽に遊びに来てくれ」と言ったという。「東京・神楽坂の料亭では、会談した相手の運転手にまでチップを渡していましたよ。無学の叩き上げだったからこそ、運転手にまで気配りができたんでしょうね」(浅川氏)

 マスコミへのサービス精神も旺盛だ。金権政治で叩かれていたときも、マスコミのカメラマンの姿を見かけたら、右手を上げ、「ヨッ!」という有名なポーズを必ずしていた。取り巻きに「批判する相手に手を上げる必要はないですよ」と言われると、「連中だって好きでやってるわけじゃない。俺の写真が撮れないと商売にならんだろう」と答えたという。そうやって人の心をつかむだけではなく、話術がまた巧みだった。「演説の2分半に1回、必ず冗談を入れるんです。それを本人に聞くと、“おぉ、そうか、君に初めて言われたよ。よく研究してくれてるな、ありがとう”と礼を言われた思い出があります(笑)」(浅川氏)

 その角栄氏は“コンピュータ付ブルドーザー”との異名を取った。緻密な計算に基づき、大胆に行動したからだ。「趣味のゴルフにしても、プレーした月日はもちろん、ホールごとの成績、ボギーだった、バーディだったということまで細かく覚えているんです。官僚からの説明にも、詳細な数字をきちんと把握していましたね。政治家はふつう、たとえば約4000などという数字を概算で記憶するんですが、角さんは、“3981”という具合に正しく記憶していました。正確な数字こそが説得力を持つと考えていたのかもしれません」(前同) そんな角栄氏にも唯一の弱点があった。愛娘の田中眞紀子元外務大臣だ。

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